2017年12月

立つ鳥、跡を濁さず

平成29年も今日でお仕舞い。干支の酉(トリ)年に掛ければ、表題のごとく「立つ鳥、跡を濁さず」。われら一宮むすび心療内科もあと1ヶ月で今の場所を立ち去り、引っ越しすることに。患者さんには移転先の説明を始めているものの、「こんな便利なところでやっていて、なぜ移るんですか?」と訊かれることもあるため、今年最後の当欄でお伝えしようと思った次第。

平成25年夏。当時上林記念病院勤務だった僕は、休日に開業物件を探していた。知人を通じて見つけたのが、現在地のテナントだった。JR尾張一宮駅徒歩3分の至便。鉄筋3階建の2,3階に会社経営の大家が住み、1階部分をその会社から借りる“軒先貸し”だったが、スケルトンで自由にレイアウトできるので、即決した。
26年4月8日、灌仏会(かんぶつえ)のおめでたい日を選び、門出を飾った。心身医療を生まれ育った地でというわが思いは順調に展開するかに見えた。
大家は「良い人」だった。大家分の駐車スペースが空いているときは使用許可してくれたし、雪の日は雪かきスコップを貸してくれた。しかし、入居時に抵当権が設定されており、ほどなく大家の会社が自己破産するとは想定外だった。当院ホームページには建物全体が写っているので、院長所有のビルと勘違いする患者さんもいたが、当院は家賃を支払う店子の立場だった。
任意売却が何回か不調に終わり、しかも管財人が途中で“辞めて”しまうハプニング〔これには、いまだに腹が立っている〕もあって審査が長引き、裁判所による売却が行われた。当院も競売に参加したが、ことし夏落札したのは、1億円を超える額を提示した地元A社だった。
「バブル期のような地上げ屋だと困るが、地場の老舗会社なら再契約してもらえるだろう」と当初は高を括(くく)っていた。だが、裁判所から指示されたA社の担当者に何度連絡しても、返事はなかった。
8月1日夜。速達で内容証明郵便が届いた。A社代理人の弁護士からだった。立ち退きするよう求める文章が記されている。「やられた!」、、、、、、愚痴をこぼした知人はほぼ例外なく「営業権あるんでしょ。立ち退き料もらえば」という。
しかし、法律的にはそれは的外れだ。当院入居時に抵当がついている以上、競売で当ビル土地を取得した新所有権者には対抗できない。しかも、A社は損害金として毎月、家賃の約2~3倍の金額を要求、期限内に出ていかなければ違約金500万円を求めてきた。
半年は法律の猶予期間があり、家賃相当額を供託する選択肢もあったが、移転先が見つからなければ、当院は“空中分解”せざるを得ない。やむなく和解を進め、年末に成立した。
問題は移転先だ。いろいろあって結局、市内中心地、真清田神社隣の旧則武医院を借りることができた。故則武克彦先生は2年前、トライアスロン中に50代の若さで急逝された。残念至極だが、同院ビルに住む奥様が使用を快諾してくださる心の広い方だったのが幸いした。〔クリニックは2階でエレベーターがありません。車いすの方の対応は困難です〕  

というわけで、一宮むすび心療内科を応援して下さる皆様に。よいお年を!

塀の中からの手紙〜神様の贈り物〜

師走も残りわずか、クリスマス用イルミネーションがきらびやかに街を飾る。サンタクロースの贈り物を待つ子供たちの顔を思い浮かべてみる。そういえば、サンタの正体が親であることに気づいたのは何歳の時だったかーー

少し前のことになるが、精神科医成田善弘氏の講演を聴く機会があった。先生の著書『贈り物の心理学』を会場で購入して、未読のまま気になっていたのを、お歳暮の季節に一気に読み終えた。
診察室で患者さんから渡された贈り物を受け取るべきか悩み、専門誌に投稿したのが本を書くきっかけだった。精神分析の文献、とくにフロイトが贈り物をどう論じているか関心があったが、意外と語っていないことに気付いた。そこで、腎移植の患者さんとドナーに精神医学的に関わった経験を交じえ、ギリシャ神話や文化人類学、わが国の民話伝承など豊富な知識を引用しながら論じた。

どの章も読みごたえのある内容だが、とりわけ第Ⅵ章「分離と秘密と贈り物」は興味深かった。
「贈る」は「送る」に由来する。つまり、贈るには、別れを否定し、つながり、結合、一体を維持しようという意味がある。同時に贈り物が分離を顕在化させる。
夏目漱石の小説『坊ちゃん』で、同僚の数学教師山嵐におごってもらった氷水代金一銭五厘を返す場面がある。その一方、坊ちゃんは乳母の清(きよ)に借りた三円を5年経っても返さない。
坊ちゃんは清を自分の分身と思うゆえ、恩を着ても平気な甘えられる関係だった。ところが山嵐に裏切られたと思い込んだ途端、わずかな贈り物を返済する義理立てしなくてはならなくなった。
秘密の告白は贈り物と等価であるという。
人は内的な感情、願望、不安を打ち明けることで相手と親密になろうとし、あるいは利益を与えたり、知らない情報を伝えることで心理的上位に立とうとする。これらの働きは贈り物についても当てはまると著者は述べる。
さらに、秘密を打ち明けるには相手の信頼が前提となり、告白は相手を縛ることにつながる、とする。精神科医は患者から重大な秘密を吐露されるとき、重圧を感じることがあるが、それはこうした理由からだ。「贈り物」はサンスクリット語では「拘束」の意味を持つ。
まさに「贈り物の背後には両価的感情が潜むことが多い」〔同書186頁〕

本日、滋賀県・南彦根の湖東記念病院で末期患者が亡くなったのを、人工呼吸器を外したとして殺人に問われた元看護助手西山美香さん(37歳)の再審請求事件で、大阪高裁が再審開始決定を下した。逮捕以来14年ぶりに司法が冤罪の可能性を認めたことになる。
最高裁上告で棄却され、再審請求も一度は却下された末の決定。その間、獄中から一貫して「私は殺ろしていません」と訴え、350余通の無実を訴える手紙を両親に送り続けてきた美香さん。
その真実の叫びの声を最初に受け止めたのが僕の以前勤めていた新聞社だった縁で、彼女と結びついた。美香さんにハンディキャップのある事が、この冤罪の社会的意義をより大きくしたのは確かだ。
有罪の証拠が事実上美香さんの自白のみという時代遅れの捜査、公判を通して、この国で社会的弱者の置かれた位置がクッキリとあぶり出された。
僕にとってはきっと、美香さんの手紙が“神様の贈り物”だったのだろう。彼女にとっての再審決定がそうだったようにーー



 

ふぞろいの林檎たち~異形の光を受け止めるには~

師走入りとともに冷たさを増す北風に乗って届いたニュースが気になっている。
今秋、異例の長雨と早々と南下した寒気のために野菜の生育が遅れ、苦境に立たされる農家の様子をテレビで報じていた。10月の週末、続けて日本列島を縦断した台風の影響で茎の曲がったブロッコリーが商品にならなくなり、畑で嘆く男性の背中を見て思い出したテレビドラマがあるーー

『ふぞろいの林檎たち』〔山田太一原作・脚本、昭和58年~放送〕。都心の無名大学に入った主人公、良雄と同期の健一、実の3人は、女子大生をお友達にしようとテニスサークルを立ち上げたが、参加したのは看護学生の陽子と晴江、そして本物の女子大生だが力士体格の綾子だった。番組は6人の学生生活を軸に、落ちこぼれの烙印を押された若者たちの揺れ動く姿を描くことで、学歴社会へのプロテスト(抗議)を含んだ名作に仕上がっていく。

サザン・オールスターズの主題歌『いとしのエリー』が流れる中、新宿高層ビル群をバックに不ぞろいのリンゴがお手玉のように空中に放られるシーンはおそらく、あの時代の若者の脳裏に焼き付いて離れないはずだ。同世代の僕としては今も、スーパーでリンゴを選ぼうと手に取るや、条件反射的にあの場面を思い出す。そして、瞬時、自らを省みるのだ。少しでも形の良いリンゴを選ぼうとしていないかと、、。

この秋、経済ニュース面をにぎわせたのは神戸製鋼や三菱マテリアルなど、一流と呼ばれる企業の品質管理データ改ざん事件だった。もっと突っ込んで知りたかったのは、改ざんの「数値」が技術的にどこでどういう理由で決定されたかということだった。実際の使用に問題ないのなら、その安全“のりしろ”を踏まえたうえでの決断だったのか。これがバブル以降失われし20年のツケなのか?

私淑する養老孟司氏がつとに指摘するように、現代人は環境を自分たちの脳に合わせようと人工化(=都市化)してきた。「ああすれば、こうなる」社会では、ネジが歪んでいては建物は倒れ、社会の存立が危ぶまれる。都会の道路でけつまずけば「だれがここをデコボコにした。責任者出てこい!」というわけだ。だが、山道で木の根っこに足を取られても、「それは気づかないあなたのせいでしょう」。自然に直線はない。

工業製品のごまかしは社会問題になるが、農産物の“ずる”、すなわち規格化によるいびつな商品の排除とコスト最優先の安全無視(農薬、添加物の問題など)は、ほとんど話題に上らない。それを口にする者たちの健康は数値化が困難ゆえ、スルーされてしまうのが都市化社会の宿命なのか。

改めて、問おう。障害を持つ人たちの存在を危うくしているのは、ふぞろいの林檎を切り捨ててきた私たちの心の中に巣食う“ムシ”ではないのか?異形(いぎょう)の放つ見えない光を受け止める感受性を持つ眼(まなこ)を持てるようにするための取り組みが社会的に求められるのが、ポスト・平成時代なのだろう。




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