2017年05月

プロフェッショナル〜自白と告白〜

いまやインターネット全盛期。ラジオで海外短波放送を選局して楽しんだ世代としては、追いてけぼりを喰らわないようにするのが精一杯なのだが、世論調査でも若者の新聞、テレビ離れがはっきり表れている。かつての山田太一ドラマ(例:ふぞろいの林檎たち)のような興味をそそられる番組も無く、TVで観るのはニュースくらいなもの。

そんな中、時間が許せばリモコンのスイッチを入れるのがNHK『プロフェッショナル~仕事の流儀』だ。
中島みゆきのテーマ曲『地上の星』で話題となったドキュメンタリー『プロジェクトX』の後を受け、臨床医やスポーツ選手、職人、清掃業者など各界の達人に焦点を当てた“専門家紹介”の長寿番組。
何が素晴らしいと言って、その道一筋を歩んできた人の生き方には、いつも目から鱗(うろこ)が落ちることだ。
そして、番組最後に決まって出る問いが「あなたにとって、プロフェッショナルとは?」。答え方は達人それぞれだが、ひとつの共通点がある。ーーそれは“矜持”(きょうじ)。単なるプライドとは異なる。苦労と経験を重ね、高みに到達したひと握りの職業人のみが持てる心持ちーー

プロフェッショナル(professional)の語源は、ラテン語で、公に(pro)宣言する(fessus)からきている。
昔読んだ村上陽一郎氏の著作で教えてもらった。世間に広まったのは中世ヨーロッパ。「公の宣言」とは要するに、神の前での告白のことだ。
神に認められた者たちで作る専門家集団。なので、当時最初にできた大学の学部が神学部であり、医学部・法学部だった。大学教授の英訳professorも同じ流れから出たものだ。両学部の偏差値が高いのは、医者や弁護士がもうかるからではなく、神の前で告白すべき職業(profession)ゆえ、高い倫理を要求されるからである。
ノーブレス・オブリージュ〔高貴な者に課せられた義務〕という言葉がある。これは当然、行政や立法の分野でも求められるはずだが、現実はどうなのか。

前回ブログで書いたように、法学部と医学部で学んだ者として、忘れられない経験をした。

中日新聞の記者コラム『ニュースを問う』に、3回にわたって重大記事が載った(5月14,21,28日)。
2003(平成15)年、滋賀県彦根市の病院で72歳男性が死亡した。植物状態で人工呼吸器を着けていたが、亡くなった当日、看護助手西山美香さん(当時24歳)が呼吸器の管を外したとして、殺人罪に問われた事件〔最高裁で確定して刑務所収監中〕。
彼女は取り調べ段階で「自分がやった」と“自白”したが、公判以後は一貫して否認。「私は殺ろしていません」と無実を訴える手紙約350通を両親に送り続けてきた。
物的証拠は何もなく、唯一の“証拠”が彼女の自白。しかし裁判では、看護師に比べ低い待遇に不満を持ち、計画的行為に及んだとして、自白に自発性有り、とされてしまった。
一連の経過に冤罪(えんざい)の匂いを感じ取った担当記者らは弁護団と協力、両親への聴き取りなど取材を進めた。その結果、西山さんが元々発達に問題を抱え、担当刑事に誘導されて嘘の自白に至ったことを突き止めた。その際、不肖小出が西山さんに心理検査を行うことになり、臨床心理士らと刑務所を訪ね、検査を実施したというわけだ。
詳細は立場上、書けない。ただ記事を読めば、彼女の無実が十二分に伝わってくる。

プロフェッショナルの来歴を知れば、司法こそ、その最右翼と言うべきだろう。真実という名の神の下で告白すべき“西山再審”担当裁判官にぜひ訴えたい。ノーブレス・オブリージュ!







 

事実と真実~平沢貞通没後30年に思う~

5月10日は帝銀事件の平沢貞通死刑囚が獄死してちょうど30年。亡くなった八王子医療刑務所に取材で居合わせた一人として、ある感慨を覚えるーー

昭和62年4月、国鉄民営化によりJRが発足。憲法記念日、朝日新聞阪神支局で赤報隊が散弾銃テロ、小尻知博記者が殺害された。自分と3歳違いの“同胞”の死に衝撃を受けていた矢先のビッグニュース。東京新聞武蔵野通信局に配属されて間もない自分に、「平沢が危篤。八王子に急いでくれ」と指令が飛んだ。
法学部卒の端くれとして、冤罪(えんざい)を訴え続けて獄中39年、再審請求を重ねる帝銀事件は知っていたし、名前の貞通も間違えずに書けたが、テンペラ画の何たるかは分からぬ中途半端なものだった。

昭和23年1月26日、東京都豊島区の帝国銀行椎名町支店に都の消毒班と名乗る男が侵入した。ニセの集団赤痢発生情報を理由に、予防薬と称して行員らに毒物を飲ませ、12人が死亡、現金・小切手が奪われたのが「帝銀事件」である。当時はまだGHQ占領下で、同事件や国鉄車両が暴走する三鷹事件など、謎に満ちた事件が続出した戦後混乱期だった。
凶器の青酸化合物をいともたやすく操る手口から、当初は陸軍731部隊の関与も取りざたされたが、7か月後に逮捕されたのは、それとは何の関係もないテンペラ画家の平沢(当時56歳)だった。その経緯、GHQ陰謀説などについては作家松本清張の『小説・帝銀事件』をはじめ、あちこちで議論の的となり、映画化もされた。

清張はその後出版した『日本の黒い霧』の中でこう書いている。「最高裁の判決は絶対権威である。、、それには万人が納得するだけの論理と科学性がなくてはならない。少しでもその判決が疑念を持たれたり、曖昧な印象を与えてはならないのである、、」。そして、彼一流の推理を働かせ、平沢無罪論を展開するのだ。
最後はこう結ばれる。「帝銀事件は、われわれに二つの重要な示唆を与えた。われわれの個人生活が、『いつ、どんな機会に「犯人」に仕立上げられるか知れないという条件の中に棲息している不安であり、一つは、この事件に使われた未だに正体不明のその毒物が、今度の新安保による危惧の中にも生きているということである』」(『』内本文に傍点)。
どうだろう、これが57年前に書かれた文章と思えるか?“共謀罪”制定間際の平成ニッポンにそっくり移し替えて何の違和感もない、とはいえまいか?

帝銀事件が僕の心に残る理由は、それだけではない。
平沢死刑判決のかぎとなったのは、逮捕・起訴時の自白だった。
有名な事実だが、事件当時平沢は、狂犬病予防接種の副作用でコルサコフ症候群にかかっており、その症状として「虚言癖」があった。自白の信用性確認のために東大精神科教授らによる精神鑑定が行われ、鑑定人は「平素の状態と大差なし」と結論付け、それが有罪確定に大きな影響を与えたとされる。しかも、その鑑定が間違っているという事後鑑定が、これも東大の後輩精神科医の手で作成されているのだ。

帝銀事件から27年後、冤罪を訴えながら棄却されたある殺人事件後に最高裁が「白鳥決定」を出した。
〔再審決定のためには確定判決における事実認定につき合理的な疑いを生ぜしめれば足りるという意味において、「疑わしいときは被告人の利益に」という刑事裁判における鉄則が適用される〕。
この鉄則が、平成のいま、全国津々浦々の裁判にまで及んでいることを祈るばかりだ。裁判的事実と真実のあいだに横たわるものとはいったい何だろうか、、、

憲法70年古来稀なり

師いわく、人生七十古来稀なり。そのデンでいけば、日本国憲法施行70年をどう言祝(ことほ)ぐのかは、我が国の行く末を占ううえで、超重要なポイントとなるだろうーー

ーーこの後の文章を考えていたら、とんでもないニュースが飛び込んできた。
安倍首相が憲法改正推進派の集会で「2020年を新しい憲法が施行される年にしたい」と、ビデオメッセージを寄せたのだ。しかもその内容は、憲法9条1,2項を残したまま、自衛隊を明文化すべきというもの。
確かに現行憲法は、敗戦による連合国の占領状態下で制定された。しかし、法律的には適正手続きの下、改正されたものであり、何をおいても、この70年間、それを是認してきた日本国民の総意がある。
むろん個々人で異なるさまざまな意見は尊重されるべきであり、自由民主党は結党以来改憲を党是としているのだから、自民党総裁である首相の口から改憲の二文字が出て不思議はないといえばその通りだが、、、。

民放TVで石破茂元防衛相は、安倍首相のような内容で党内議論が出たことは一度も無いと述べ、交戦権まで否定した9条2項と自衛隊を同じ条文で並置させることに強い違和感を表明していた。
論理的に見れば、「あべ」より「いしば」が正しいことは火を見るより明らかだ。鉄道・プラモデルおたくで、曲がったことの嫌いな石破氏にしてみれば、総理の発言は誠実さに悖(もと)ると映ったことだろう。「侵略戦争ははっきり憲法上否定し、自衛のための戦闘は国家の権利として当然認めなければならない」とする話には、きちんと筋目が通っている。
かたやプロパガンダに関しては、今の日本で右に出る者はいないと思われる安倍首相。石破元防衛相の主張は百も承知だろう。「問題は理屈ではなく、国民をどう納得させ、導けるかだよ」と言っているように聞こえる。昭和の時代なら、自民党内ですでに”数のおごり”として議論が出たに違いないが、そこが平成という時代なのだろう。

ここで読者諸兄、これがなんで心療内科ブログなの?といぶかる方のためにーー
院長(筆者)は医者であり、法学部卒の人間です。一つ目の大学に入ったあと、目指したのは憲法の研究をすること。「国はいかにして個人を”縛る”ことができるのか?」という哲学的課題を20歳そこそこの若造は思い悩んだ。
結局、法律家にならずに、マスメディアの道に進んだものの、そこも7年で通過し、今度は医学の道へ。
その時考えたのは、「心はいかにして体を”縛る”のか?」。日本海を隔てた半島北部にある独裁国家とは違って、なんでも自由に考えられる国、日本〔それも最近怪しいが〕。
しかし、その先入観は精神医学、心療内科を学び、実践するうちに間違っていたことに気づく。
ひとは、そのひとが思うほどには自由に考えることも行動することもできない真実。
憲法は英語でConstitution. 医学的には、「体格、気質」という意味がある。日本という国家の”体質”はどうなっていくのか、法学・医学を学んだものとして、これからも見つめていきたい。


ギャラリー