2016年05月

故郷はどこにあるのか

金沢で開かれた医療講演会に参加した。成人ADHDの講義が勉強になったのはもちろん、初めての訪金のせいかワクワクして兼六園など見物した。一泊二日の滞在でいちばん心に残ったのは、市内を穏やかに流れる犀川の光景だった。「 ふるさとは遠きにありて思ふもの 」。有名なフレーズが自然と口をついて出た。故郷についてつれづれ思ったことを書き連ねよう。

文豪室生犀星[1889-1962]は生地金沢に対し、つねに葛藤を抱えて生きた。実質的処女詩集の最初に、例の詩が載っている。

ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの 
よしや
うらぶれて異土の乞食(かたゐ)となるとても
帰るところにあるまじや
ひとり都のゆふぐれに
ふるさとおもひ涙ぐむ
そのこころもて
遠きみやこにかへらばや
遠きみやこにかへらばや  <抒情小曲集一部(故郷にて) 小景異情その二>

旧加賀藩城下の剣術道場主、小畠弥左衛門吉種63歳の時の不倫の子が犀星だった。生母は女中か誰かいまもって不詳。犀川べりの住職、室生真乗の内縁の妻、赤井ハツにもらわれ、私生児赤井照道として届出、7歳で真乗の養嗣子となって、室生姓を名乗る。3人の血の繋がらぬ兄姉妹があった。家は檀家を持たない賽銭だけの小さな祈願寺だった。
照道は高圧的な酒のみの養母から絶えず叱られて育ったという。家事都合で高等小学校を中退、13歳のとき金沢地裁の給仕になり、上司の俳人から俳句を習い始めた。その腕前は17,8歳の頃には地元新聞で常連となるほどだったが、19歳の時、金沢から二里離れた町の登記所に左遷。その真相は、養母や家族から離れたかった照道が希望したためとされる。
わずか8㎞という間合いが照道の心情を反映している。そして筆名を犀星としたことが彼の故郷への思いを吐露している。
その後、上京して北原白秋や萩原朔太郎との交流を深め、詩人作家としての道を犀星は歩んでいくが、地元に錦は飾らず、東京の自室には犀川の写真が貼られていた。

このエピソードを知り、僕自身の記者時代、東京・世田谷でのアパート住まいの頃を思い出した。
冬のある日、すきま風が古アパートの扉から舞い込んだとき、地元一宮の「伊吹おろし」を連想したのだった。
――自転車通学だった中学生時代。冬の下校時、こいでもこいでも前に進まぬと思えるほど強く北風が吹く。伊吹山から関ヶ原を抜けてくる寒風が伊吹おろしだ。2㎞離れた家に着くと、両耳が誇張でなく真っ赤に腫れ上がっていた――
伊吹おろしを連想したとき、ちょうど読み返していた小説が魯迅の短編『故郷』だった。
作者自身が主人公のモデルで、20年ぶりに故郷に帰る場面から始まる。かつての地主が没落し、生家の家財を引き払うための旅行。少年時代に遊んだ小作人の息子、閏土(ルントー)との再会を待ちわびるが、大人になった閏土はもうかつての丸顔の少年ではない。
「ああ、閏(ルン)ちゃんーーよく来たね」とねぎらう私に対し、黄ばみ、深い皺のたたまれた顔が、薄手の綿入れ一枚のいでたちで「旦那さま、、、」と応える場面の切なさ。
中学3年の教科書で繰り返し読んだ。文章を読んで涙が出たのは『故郷』が初めてだった。

以前、当コラムで紹介(アーカイブ2016.4.17「僕は17年監禁された~戸籍のない人生~」)した室田居留男さん(23歳)のことを覚えておられるか。生まれた土地も親きょうだいも知らず、見知らぬ「おじ」に17年も部屋に閉じ込められて育った青年。先日の診察でこんな話をしてくれた。
「自分のルーツはやはり知りたい。戸籍も欲しいが、日本人と証明するものが無いと裁判で言われた。僕の話自体、埼玉の女子中学生監禁事件でようやく本当かもしれないと言ってくれたけど、、、」。室田さんは運転免許証をまず取りたいが、住民票がそもそも発行されないのだという。証明責任は誰にあるのか?犯罪の被害者である室田さんに、国は責任を負わせている。
室田さんには「故郷」がない。しかし、いま一宮で住み続けている事実を行政は理解し、最低限住民票を発行すべきだ。そんなことすらできない国なのか、日本は。

たとえ生育環境が嫌悪に満ちていたとしても、室生犀星にとっての故郷は、やはり犀川の流れる地、金沢だったと言うしかないだろう。
魯迅は『故郷』の最後でこう書く。「もともと地上には道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ」。故郷に繋がる道は、誰にも等しく開かれていると信じたい。










 

人生は旅~五七五に凝縮された宇宙観~

大型連休明け、中学生の患者さんを続けて診察した。なかでも不登校のA子さんは修学旅行に行けたと喜んでいた。東京ディズニーランドより国会見学の方が興味がわいたというところが彼女らしいが、そうか、修学旅行シーズンだなあと、しばし感慨にふけった。きょう5月16日は、俳聖・芭蕉(1644-1694)が『奥の細道』の旅路に出た日を祝して設けられた「旅の日」。

「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。、、」で始まる文章は、中学2年の国語で暗唱させられた。百代の読み方「はくたい」の語感はえらく斬新に聞こえた。唐の詩聖・李白の詩が下敷きと後に知り、なるほどそれで、とうなずいたものだが、最近書店で手に取った『松尾芭蕉 おくのほそ道』(長谷川櫂著、NHK出版)を読んで、その“奥”の深さにあらためて感嘆した。
冒頭、自身も俳人である著者は「芭蕉は日本を代表する最大の詩人」と断ずる。その理由は応仁の乱から関ヶ原の戦いにいたる戦火で滅んだ古い日本文学を蘇らせた点にあるという。脈々と人の心を詠み続けてきた和歌に対し、言葉遊びで低級文芸と侮(あな)どられてきた俳句[連歌の発句]を新境地に引き上げたのが芭蕉だった。

古池や 蛙飛こむ 水のおと 

日本人なら誰でも知っているこの句。しかし、その句意はこの本に教わるまで知らなかった。ふつうなら、古い池にカエルが飛び込む様子を写生したと思うだろう。僕もそうだった。
実際は違った。ある日、芭蕉は門弟たちと隅田川のほとりで俳句を詠んでいた。すると庵の外から蛙が水に飛び込む音が聞こえた。そこでまず「蛙飛こむ水のおと」と詠み、しばし黙考ののち「古池や」を加えた。
ここで重要なのは、古池は芭蕉の心に生まれた“幻影”だということだ。<現実+心>という異次元のものが一句に同居することで躍動感をもたらす。
古池の句の5年後(1689年)、芭蕉は深川の居を人に譲り、門人曾良と600里150日間の旅に出る。一番の理由はみちのく(東北地方)の歌枕(和歌に詠まれた名所)をめぐることだった。[、、松嶋の月、先(まず)心にかかりて、、、は宮城の景勝地、松島のこと]。
中学生レベルなら、江戸時代の優れた紀行文として覚えておけばよいのだが、実際『奥の細道』が完成したのは、旅路の5年後、死去する年のことだった。何回も推敲を重ねた跡が残っており、曾良の日記とは事実で異なる部分も目立つ。つまり、芭蕉が目指したのは単なる旅の記録でなく、古い日本の遺跡を訪ねて開けた新しい世界観だった。それが“不易流行”を踏まえた“かるみ”だ。
この世はたえず変化(=流行)しながら、じつは不変(=不易)である真実。
 閑さや 岩にしみ入 蝉の声
山寺で岩にまで透徹するセミの鳴き声を聞き、天地の閑(しずか)さ、変わりなさを感得する。その自然観の上に立って悲惨である世界を軽々と生きていく(=かるみ)決意。『奥の細道』にはその思想が立ち現れる。そう読むべきだと長谷川氏はいう。

作家の吉川英治は、人生を「片道切符を持って行く旅」と表したが、その切符に印字すべき言葉こそ“かるみ”なのかもしれない。日々の診察でもこの世界観を患者さんたちに伝えていきたいと感じた。
かるく生きる、とは軽薄な人生とは無論違う。いってみればそれは、炭焼きの炭を掌に乗せてなお、口笛を吹くことのできるような境地なのかもしれない。修学旅行の泊まり宿で枕投げに興じ、先生にお目玉を喰らったわが世代も、東京ディズニーランドで電飾パレードに酔いしれる平成っ子世代も、人生という名の重荷を背負って歩き続ける旅に変わりはないのだから、、、。





白衣の天使は孤高の戦士

大阪万博以前の昭和40年代は、そこかしこに原っぱの残っていた時代。そのころ、小学生の男子間で流行っていた替え歌がある。英国童謡『ロンドン橋落ちた』のメロディーで  ♪ アルゼンチンの子ども 子ども 子ども  アルゼンチンの子ども アールゼーン チン子 ♪。 もうひとつ、登下校時のヒマつぶしに使われたなぞなぞ、というか言葉遊びがあった。「ナイチンゲールは男か女か?」~~~~答えと理由は自明なので省略。
そう、きょうは近代看護教育の母、フローレンス・ナイチンゲール(1820-1910)の誕生日、そして国際看護師の日。

ナイチンゲールの名前は小学校時代の遊びで知っていたし、その後も、彼女はクリミア戦争(1854-1856)で従軍看護師として活躍して“白衣の天使”と呼ばれ、赤十字社設立に関わった、という認識でずっときた。ところがこの先入観が、今回当コラムのために読んだ偉人漫画で吹っ飛んだ。
『ナイチンゲール伝』(医学書院)。著者の茨木保さんは産婦人科医。クリニック院長として働くかたわら、医学漫画やエッセイ、テレビ番組の政策協力に携わり、「Dr.コト―診療所」の監修者としても知られる。以下、同書をまとめてみよう。
産業革命を経た英国は19世紀、ヴィクトリア朝と呼ばれる絶頂期を迎え、世界に植民地を求める帝国主義を推し進めていった。この時代に生を享(う)けたのがフローレンス・ナイチンゲールだ。英国上流階級の次女として両親のイタリア旅行中に生まれている。フローレンス(以下“フロー”)は出生地フィレンツェの英語読みだ。
フローは生まれつき変わった娘で、なんでも数えて書き留める癖があった。ケンブリッジ大卒の父はフローの才能を伸ばすべく、ラテン語を含む各国語や歴史、哲学など自ら英才教育を施す。しかし、勉学には秀でたフローの欠点が“完璧主義”だった。家族との食事中も音を立てずにスープをのんだり、食べる順番にこだわり、「食卓恐怖症」に陥った。規則性が大好きな彼女の乱れた心を癒やしたのは数学だった。これがのちに、近代統計学の祖とも呼ばれるフローの原点となった。
そんなフローは16歳の時、神秘体験をする。
「神に仕えよ」
突然の啓示だった。それを「世の中のためになる仕事をせよ」と受け取ったフローは後、社会勉強で訪れた農民小屋の貧困と不安を目の当たりにして心動かされ、24歳で看護師になる決意をしたのだ。
しかし、19世紀半ばの病院は、今からでは想像を絶するほど不衛生な環境だった。微生物による腐敗をパスツールが証明する以前の時代、看護師は「無能でだらしない大酒のみがする下品な仕事」というのが世間の評価だった。案の定、家族から猛反対を受けたフローは、白昼夢に悩まされ抑うつ状態に陥った。
彼女の窮地を救ったのは知人から勧められた転地療法だった。出生地イタリアを訪ねたフローは、ローマでシスティナ礼拝堂壁画に感動して生気が甦る。同時に慈善事業に熱心な資産家ハーバートの知遇を得、33歳の時、再度神の声を聞く。
経営の傾いたロンドンの慈善病院再建責任者となったフローは、持ち前の潔癖性と合理精神をいかんなく発揮し、近代的な「ナイチンゲール式病院」が誕生した。いまでは当たり前のナースコールや温水配管、食事運搬リフトはこの時に生まれたものだ。
この成功を機にフローは支援者ハーバートの信任を得、トルコ領で起きたロシア軍とのクリミア戦争で看護団派遣を依頼された(彼は戦時大臣になっていた)。このときもフローは神の声を聞く。34歳の秋だった。
戦場は地獄だった。クリミア半島の負傷者は黒海の対岸にある野戦病院に運ばれた。30㎝間隔で寝かされた兵士は泥だらけで、薬も手術台もなかった。しかし、フロー率いる看護団の最大の敵は同朋軍のシステムだった。包帯ひとつ調達するのに書類を何回も決済する必要があり、忙殺される医師は患者を診る余裕すらなく、看護師の存在を疎(うと)ましがった。
38人の看護団はまず患者の食事作りに専念した。医師の面子を保ちつつ、実質的な援助から始める作戦に出たのだ。フローは毎夜6㎞にもわたる病棟廊下を巡回し、1万2千人の収容者から「ランプを持った淑女」と呼ばれた。そのかたわら、人脈を利用して議員や従軍牧師らを味方につけ、病的なまでの筆まめを武器に、軍と病院組織の再編成を訴える書簡を本国に送り続けた。
こうした努力が実を結び、フローはヴィクトリア女王からお墨付きの手紙を得る。2年半の滞在でフローレンス・ナイチンゲールの名声は英国中に知れ渡ったが、終戦で帰国したフローは人目を避けるようになり、軍隊改革の夢にうなされる。いまならPTSDと診断されるところだ。
それが一転、ヴィクトリア女王に謁見(えっけん)し、政治家の後援を受けるようになると、水を得た魚のごとく、陸軍の衛生改革を提言し、戦時死亡率をグラフ化するなど働き続けた。過労で再三倒れても完璧主義の彼女は仕事を止めない。家族とも険悪な関係が続き、腹心のハーバートが病に倒れても「仕事を途中で投げる能無し」と罵倒した。
ようやくフローがハーバートの存在の大きさを知ったのは、彼の訃報に接した時だった。41歳にして4回目の神の声が響いた。それ以後、彼女は90歳で死ぬまで声を聞くことはなかった。
赤十字活動はスイスの実業家アンリ・デュナンの提唱で創設された(白地に赤の十字はスイス国旗の色の反転)。ナイチンゲールが作ったという誤解をする人が多いようだが、フロー自身は赤十字活動には参加していない。「構成員の自己犠牲に依存する援助活動は長続きしない」という持論からだったという。
その一方で、貧困者や病者を救済するシステム作りは、ロンドンでの病院改革以来フローの信念であり、その方向性は赤十字活動と一致する。

看護師を目指す学生が病院実習の前に教員からナースキャップを授けられる戴帽式のとき、キャンドルの灯りでナイチンゲール誓詞を朗読する。しかし、フローレンス本人はこの誓詞に全く関わっていない。
芥川が書いたように、フローレンス・ナイチンゲールという稀有な人格の前に、同世代はついに理解できず、後世代は「香を焚いている(=有り難がってまつり上げる)」のかもしれない。

白衣の天使は同時に孤高の戦士でもあった。





立夏のカエル~揺れ止まぬ火の国を想う~

陽の光まぶしく、ゴールデン・ウィークにふさわしい気候。しかし、熊本・大分地方ではいまだに揺れが止まない。余震は1000回を大きく超え、4月14・16日の震度7がわずか三週間前の出来事とは思えないほど時間(とき)が長く感じられる。いまだに2万の人々が避難生活を強いられるなか、“火の国”を想う。

ことしは明日のこどもの日が「立夏」。二十四節気をさらに三つずつに分けた七十二候でいうと、これからの6日間は「蛙(かえる)始めて鳴く」と表す。八十八夜を過ぎ、田んぼに水が張られ、求愛の声高々に、カエルの合唱が始まる季節というわけだ。

カエルと聞いて思い起こす詩人といえば、草野心平(1903-1988)。福島・いわきの出身。”蛙詩人”と呼ばれ、カエルを題材とした多くの作品を残した。中学の教科書にあった「さむいね。ああさむいね、、」で始まる二匹の蛙のつぶやきの詩(『秋の夜の会話』)を思い出す人も多いのではないか。
心平は同じ東北出身の宮沢賢治の7年後の生まれで、21歳の時賢治の詩集『春と修羅』に感銘を受け、同人として交流。直接会うことのないまま、賢治が昭和8年に亡くなると、その紹介に尽力した。賢治と同じく、いち時期農業を志すものの、新聞社や出版社に就職したり、焼き鳥屋を構えたりと、職を転々とした。この時代のつねで、太平洋戦争の兵役に取られ、終戦後家族と中国から引き揚げている。
心平はその後も貸本屋を開いて1年足らずで閉め、単身上京し住まいを転々とするなど、世事に縛られず、わが道をずんずん・ひょうひょうと生きていったように見える。

『春殖』という詩を読んでびっくりした記憶がある。
 “るるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるる”

「る」が27文字並んだだけの詩。「る」の文字をカエルの産卵の数珠つなぎに見立て、視覚効果を狙ったのだとはわかったが、そんなシャラクサイ解釈を拒んだところにこの詩の価値があるのだろう。

そんな心平さん、カエルが登場しない詩ももちろん残している。少し長いが、詩集『マンモスの牙』から『五月』という作品を紹介する。[草野心平詩集 ハルキ文庫より引用]

“すこし落着いてくれよ五月。
 ぼうっと人がたたずむように少し休んでくれよ五月。

 樹木たちが偉いのは冬。
 そして美しいのは芽ばえの時。
 盛んな春の最後をすぎると夏の。

 濃緑になるがそれはもはや惰性にすぎない。
 夏の天は激烈だが。
 惰性のうっそうを私はむしろ憎む。

 五月は樹木や花たちの溢れるとき。
 小鳥たちの恋愛のとき。
 雨とうっそうの夏になるまえのひとときを五月よ。
 落着き休み。
 まんべんなく黒子も足裏も見せてくれよ五月。”

僕の前任病院で一緒だった看護師さんは熊本出身。彼女からのメールで地元の様子をうかがい知った。
現地では、ライフラインが回復し、ごみ処分場の問題が出始めた今のほうが、震災直後より「メンタルのケアが必要になってきている」という。ストレスで下血した親友がいる。気丈な彼女の姉が夜怖くて不安になっている。いつ止むとも知れぬ余震の中で、、、。
なので熊本の五月よ。地下の活断層よ。もう落着いて休んでおくれよ。

熊本へは数年前に旅行したことがある。雄大な阿蘇山を前に、さすが肥後の国は火(肥)の国、と思ったものだ。東北大震災以来の災害に見舞われた彼の地から630㎞離れた愛知県に住む僕ができることは募金と、こんな文章を書くぐらいのこと。
水辺に住まう両生類のカエルがナマズと対峙するのかどうか知らないが、火の国の人たちが早く安住の地にカエルことができるよう此の地で祈っています。
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