2014年05月

天命を待つ

「ときに治し、しばしば癒し、つねに寄り添う」――3月まで働いていた病院のスタッフ紹介欄で自分のPRに書いたメッセージがこれである。前々回のコラムで書いたように完治の難しい病気を患うひととどう向き合っていくかは、精神科・心療内科に限らず、医療者の”根っこ”が問われる。
患者さんの受診が途切れるのにはいくつかのパタンがある。1回で来なくなる方とは「縁がなかった」としか言いようがない。悩むのは、数か月以上通ってもらったのに、転居など明らかな理由なく去って行かれる場合である。これも、ある程度やむを得ないことかもしれないが、考え込むこともある。
一番は、もともと病状が重くなく、なんとなく軽快してご本人が受診の必要を感じなくなる場合。これは、割合多いような気もするし、それなら良いことだろうと思う。また、調子が悪くなるとひょっこり受診されることがある。次に、病状が改善していないのに、医師の前でいい出しにくい性格から、しばらく受診した後のある日ぷっつり来なくなる患者さんがある(あった)と思う。そんな方にはこの場を借りて伝えたい。「遠慮なく、教えてくださるとうれしいです」。
最後に、これはしんどいのだが歓びも一番大きいパタン。たいていは境界性パーソナリティが絡んでいるケースで、「先生の治療はもう受けられません!」と大見得を切り、こちらも「わかりました!」というやり取りで終わる。それがかなり月日が経ってから、ひょこっと「先生、どうしてますか?」と連絡をくれる。

坂井奈矢美さん(仮名)は美術系の大学の時、対人関係に悩み大学のカウンセラーから紹介され僕のところにやってきた。摂食障害があり、こだわりも強く、診察室の掲示物が2㎜傾いているだけで気になって診察を中断する女性だった。何回も大量服薬(OD)をした。特徴は、僕の処方薬はODしないが、市販のルルを100錠単位でのむこと。繰り返し繰り返し、、。そのことは精神分析上重要なテーマだが、ここでは割愛する。診察につれてその数は減り、最後はゼロになった。しかし、卒業後絵筆一本での仕事をしたいのに、なかなかかなわず、摂食障害も残り、入院。その際、治療方針の行き違い(こちらにも説明不足があった)から、最後は両親とともに啖呵を切って僕のもとを去って行った。かなりの虚脱感が僕を襲った。しかし、一縷(いちる)の望みはもっていた。それは「祈り」といってもよい。治療者だって祈ることはある(少なくとも僕は)。
――僕のもとを離れ、1年以上経って手紙が来た。「先生、結婚しました。何とかやってます、、」。それを、偶然ととる方もおられるとは思うが、僕にとっては、偶然はただ待っていてもやってこないということだ。
人事を尽くして天命を待つ。企業内の人事異動しか「人事」から思いつかなくなった時代には死語に近いことわざだろうが、むかしのひとはえらいことをちゃんというものだと思う。さて、天命(50歳)を越えた小生にとって、これからどんな天からの偶然が降ってくるかは、やはり神のみぞ知る、だろうか。

「なおる」ことの意味

世の中には、いろいろな人がいて、いろいろな考えがある。幸か不幸か、今の仕事についてそんな当たり前のことを改めて思い知らされる。ただし、ここは譲れないということが、ある。それは、「正義」を隠れ蓑にしながら、ひとを攻撃することに酔いしれることである。そうする者が社会的弱者であるか否かは問わない。魂(たましい)が汚れることを嫌うのである。

なおる、に充てる漢字に「直る」を選んだのには、もちろんわけがある。確かに一般的には「治る」である。だが、一ツ家直瑠(仮名)さんには、直の字がふさわしいと感じさせるものがあった。初めて出会った彼女の弱々しいしぐさ、今にも折れそうな体つきは忘れられない。いつ壊れてもおかしくなかった彼女が、長い年月を経て回復した。客観的に見て、それは僕が関わったからだけでないのは当然のことである。周囲の支え、励まし、何より彼女自身のなおりへの思いがそうさせたのだ。
「直」の語源をご存知か?それは本来の姿に戻すことである。価値の値と同じである。大辞泉にはこうある。「良好な状態に戻る。大病が直る。罪が許される」。単にモノがもとに戻るだけではないのだ。いっぽう、「治」のおおもとは、古代中国で氾濫する河川(黄河)を治めることである。川の流れを元に戻すこと、それが政治だ。転じて、人が病気から治ることを指す。直を使った熟語に「直会(なおらい)」がある。神事の最後に参加者で神酒をいただき、神霊を授かることを目的とする儀式行為である。本居宣長は直るの意味を「斎(ものいみ)をゆるべて、平常(つね)に復(かえ)る意」(続紀歴朝詔解)と記している。そう、いつかなおるさんは、その名の通り、平常に戻っていった。――

こうした考えや書き方が気に入らないのならそれはそれでよい。”黙殺”すればよいことである。それをせず、本当に良い医者は「直る」と書かない、などといえば、溜飲は下がるだろう。俗耳に入りやすいレトリックだけに、それを信じる読者もいることだろう。
いろいろ考えた末、今後、このコラムへの「コメント」は取捨選択して掲示することと決めた。いちクリニックのしがないブログではあるが、この文章を楽しみにしてくださる少数者のかたのために、そして僕自身のためにそうする。読者諸賢の宥恕をお願いする次第である。

10年河清を待つ

今週の診察である女性患者さんが、実質的に終診となった。少し、振り返ってみようと思う。(例により個人が特定されないように事実を修飾している)

一ツ家直瑠さん(仮名)は昭和49年生まれの初診時30歳。小出のもとを訪れたのは、豊田の病院勤めの時だった。身長160㎝、体重38㎏の車いす受診。主訴は「何もできない。生きている価値がない」。完全なうつ状態で、頬はこけ、まず身体的対応が必要な状態と思われたが、それまで三河地方の主だった総合病院を軒並み受診し、検査で「異常なし」といわれ、小出の信頼するT先生(心療内科クリニック)のもとに辿りつき、入院対応も含めこちらに紹介されたのだった。
一ツ家さんは高校教師の父とパート主婦の母、父方祖母、6歳離れた兄の5人家族。兄は厳格な父と対立し、家を出て東京で芸能活動を続ける。うちでは母と祖母の微妙な関係の中で、病気がちだった一ツ家さんはやはり芸術系大学に入ったが、中退。ある百貨店に就職したものの、「接客中にお客様の視線が気になり、電車も乗れなく」なった。1年間勤めた後、風邪で休んだのを機に出勤できなくなり、退職。自室に引きこもり、心身ともに悪循環に入っていった様子だった。一番つらかったのは、市民病院の医師に「どうして、(このデータなのに)歩けないの?」と訊かれたことだった。
T先生は発達障害も考えたようだが(女性の内向タイプでときどき見かける)、心理士とタッグで治療に当たり、心理検査ではその兆候は見られなかった。幼少時に虐待されると、発達障害と同様症状を示すこともあるが、その事実はつかめず、一ツ家さんは父のことを「尊敬できる人」とこたえた。その一方で家での生活は「寂しい」とも。時間がかかることを伝えた。同時に、必ず「直る」ことも忘れず付け加えた。
4か月の入院で体重が戻ったのに合わせ、時折笑顔が見られるようになったが、まだ小出の冗談には、笑顔をかえす余裕はなかった。変わり始めたのは、結婚をし、家を出てしばらくしてからと覚えている。実家との関係は決して派手な問題があるようには見えなかったが、彼女の中で、凍っていた心の中心が少しずつ溶けだしたように見えた。小出がいくつもの病院を転勤しても、一ツ家さんは律儀についてきてくれた。そして、薬を徐々にへらし、最近はアルバイトにも自転車で出かけるように回復。抗うつ薬を含め、ついに何を飲まずとも普通に暮らせるようになっていた。気づいたら10年がたっていた。
”最後”の診察で、なにが回復によかったか訊くと、「わからないけど、まわりが理解してくれて、待っていてくれたこと。先生にずっとついてきたこと」と答えてくれた。

精神科・心療内科の治療では、正直完治は難しいことが多い。だが、百年河清を待つつもりでいて、こういった僥倖に出会うこともある。そう、まさしく思いがけない幸いである。そのことにただ感謝することができる日があるので、この仕事はやめられない。

五月晴れ 彼と母とは 晴れもせず

今日は母の日。アメリカの南北戦争に反対した女性教師をしのび、5月第2日曜と制定されて今年で100年。日本でも戦後それにならい、カーネーションなどを贈るようになったようだ。今回は「母と5月」をお題に考えてみる。

マザーコンプレックス(マザコン)という言葉自体は有名でも、その意味するところは、なかなか難しい。また、大型連休後に新入社員や新入生がやる気をなくし、出勤、出席できなくなる”五月病”も指摘されてずいぶん経つが、これも医学用語ではない。どちらも広辞苑やウィキペディアでは捉えきれないのだが、ある実例を出してみたい(プライバシィ保護のため事実を変え、本質は残すように努めた)。
 20代の独身男性・今奈門太郎君(仮名)。中学卒業後地元進学校にすすんだものの、部活の人間関係や勉強に悩み、中退。大検の資格を取り、親の縁故である商社に就職したが、入ってわずか2か月で仕事に疑問を持った。自分のやりたい事と違う、などと。なんとか1年もったが、2年目の5月連休明けから出勤拒否に至り、困った母親に連れられて心療内科受診。話をしても、下を向き、ぼそぼそ。抑うつのアンケートの点数は高いが、自殺念慮はない。ノートを使った認知療法と少量の抗うつ薬で治療を始めたが、数回で受診は途切れがちになり、その後は1ヶ月に1回、母が家族受診するようになる。いつも心配そうに「息子は大丈夫でしょうか?」と訊いてくるが、昼夜逆転の生活で夜に何をしているかたずねても、「ゲームをしていると思います」の一点張り。週末は昔の友人とバスケットボールで汗を流す、という。何か月かの母親受診でわかったのは、傷病手当が途切れないように心を配っていることだった、、、。

ひとは、ひとりでに成人するのではない。昔なら通過儀礼という関門があり、共同体という受け皿があった(それには善悪両方あるが、ここでは措く)。核家族化は成長モデルとしての親に過大な役割を負わせすぎる。これは先進国に共通の問題ではあるが、とくに日本の場合は、母性の役割の難しさ、微妙さが欧米とは異なっているように思える。マザコン息子のみが五月病にかかるわけではないにしろ、おそらく、多くの人たちが思い描くのは、そんなイメージとおもわれる。さて、どうしよう。続きは診察室で、なのか、こういう「病気」に心療内科は意味がないのか。――
カーネーション(carnation)の語源は、花弁の肌色(イタリア語)からきているという(研究社新英和中辞典)。そして、それに再び(re)がつくと、転生(reincarnation)となる。母の日に、門太郎君が生まれ変われるかどうか、祈ることにしよう。

菩薩と出会ったこどもの日

半袖ではさぶぼろ(鳥肌)の立つ雨に降られたこどもの日、用事で関西に出掛けました。新幹線から在来線に乗り換えて目にした光景。
――思いのほか車両は空いており、誰も目の前にいない通路をはさんだ対面の座席に母と子3人が座っている。三十がらみの年に見える彼女は、生後数か月の赤ちゃんをおんぶひもで胸元に抱き、両脇にはおそらく就学前と小学2、3年の男の子を従えている。いが栗頭の二男が右側から、クラゲのようにぐにゃりと体を母にあずけると、それに対抗するかのように左から、長男が母親の左手を取り、ぴしゃぴしゃと叩く。なにやら彼女に話しかけているが、聞き取れない。しかし、明らかに母は柔和な、もっといえば慈愛に満ちた表情で子どもたちに接しているのが手に取るように伝わってくる。――やや細目がちな、女優でいえば田中裕子似のその体から後光が差した、と書くと小説(フィクション)になってしまいますが、そう言って差し支えない空気が、がらがらのJR車内を満たしていました。その雰囲気のもとを辿[たど]るとひとつは、彼女が3人の子をつれていたことに行き着きます。「女手ひとつでけなげな、、」といういい方が観察する側に浮かんだのは間違いありません。それはある種の母性神話かもしれませんが、、、。

こどもの数が戦後最低を更新つづけ、まちは年寄りだらけ、という時代に突入しているわが祖国ニッポン。合計特殊出生率(ひとりの女性が一生涯に産むこどもの数)が人口維持に必要な数字を上回ることは期待できず、2人こどもがいれば多い方なわけで、経済の低迷にその原因を求めるのが主流ですが、それは真実とは異なります。一番相関しているのが高学歴化であり、次に娯楽の多様化であって、そのおおもとは未来への期待の乏しさです。”貧乏”が少子化の真の原因なら、貧しい途上国の人口爆発は日本とは全く異なると証明する必要がありますが、「貧乏人の子だくさん」な時期を経験している日本には無理な注文です。

さて10数分の邂逅[かいこう]ののち、母子はこちらと同じ駅で降車しました。そのとき愕[がく]然とした結末に出会います。朝の連続テレビ小説ならここで終わるところですが、実はこの子らには父親(母から見て夫)がいたのです。母の向かって右にいた二男から30センチ離れて座っていた男性が、その人でした。もちろん、こちらの視界には入っていました。けれど彼は道中、ただの一度も家族と会話を交わすことなく、かといって寝入るわけでもなく、ただ無表情に窓外の景色を眺めるのみでした。今思い返してみても、彼をあの母子の家族と感じ取る状況はなかったといえます。では、いったいなぜ?その答えは、5月のつめたい雨にかき消されてしまったようです。
ぶるっ!悪寒がしてきた。風邪、ひいたかな?温かいミルクをのんで寝よう。
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