先日、京都方面に出掛けたときのことを記しておきたい。
安楽死を扱った鷗外の小説「高瀬舟」の舞台、高瀬川沿いにある老舗料亭で、新聞社入社30周年の同期生が集った。辞めてすでに20年余の僕にも、律儀に声掛けする旧友の恩に頭の下がる思いだった。鳥の水炊き鍋を突っつきながら、思い出話に花を咲かす25人。髪と体型が過ぎ去りし時を物語る。
気を利かせたK君が新入当時の社報コピーをみんなに配った。初々しい顔写真わきのコメントに彼は「何事にも心を忘れない」と書いていた。僕のを見ると「今この時を大切に生きる事」とある。
酔いも回って締めは、鴨川にせり出す木床を背に記念撮影。都を貫く黒々とした流れにちょっぴり感傷的になった。

翌日、僕は奈良に向かった。急行電車で40分。目的地は興福寺。
奈良には何回も行ったが、藤原氏族の氏寺である興福寺にはこれまで縁がなかった。向田邦子原作のテレビドラマ「阿修羅のごとく」を観てから、同寺にあるあの阿修羅像を直接この目で確かめないと、という想いは募ったままだった。
定年までを平凡に生きた典型的会社員の父親が、他所で女性との関係を持っていた。それを知った四人の娘たちの心は揺れる。はた目には幸せに見える家族それぞれが互いに言えぬ秘め事をもち、心の揺れ動くさまを描いた。その修羅場を黙ってやり過ごす妻/母の隠れた怒りが、孫のおもちゃ車をふすまに投げつける仕草で表現され、それをタイトルで言い尽くしているところが凄い。あの眉の吊り上り方は忘れられない。

興福寺の国宝館には100点近い国宝・重文が陳列されている。順路の最後、天平彫刻の八部衆が立ち並ぶ中ほどに屹立するのが「阿修羅像」だ。三面六臂(ろっぴ)の独特の姿は遠くからでも目を引く。近寄って、真正面から観る。像は中学生ほどの身丈だが、台座の高さ分だけこちらが見上げる形になる。
ほかの寺社の阿修羅像(京都・三十三間堂などいくつかある)と違い、「凛々(りり)しさ」が際立つ。怒りとも悲しみとも異なる、形容詞ひとことでは言い尽くせない静けさと奥深さを感じる。あの視線はどの地点・時点を見据えているのか。
ふと、思ったことがあった。アレは”虫”ではないのか?昆虫の体節は3つで阿修羅の3つの面に対応する。なにより、あの直線的な6本の細長い腕は昆虫の脚そのものだ。そう仮定すれば、インド神話では戦闘の神とされたアスラが日本に渡って阿修羅となった歴史の流れから、憤怒の情にあふれていてもよいはずの阿修羅に似ても似つかぬ表情の謎が理解できる。
では、なぜ興福寺の阿修羅は昆虫なのか?そこがこの仮説の難点だが、ひとつ考えられることがある。
阿修羅は仏を守る八人衆のひとりで、ほかの像には鳥顔人体や、ゾウの冠を被っているものなど、動物との関連が深い。阿修羅にも動物との関連があって不思議はない。
きょう7日は興福寺の造営主である藤原不比等の娘、光明子が皇室に嫁いだ日とされる。昭和・平成では民間からの皇太子妃が話題となったが、その”ルーツ”は遠く天平の甍(いらか)時代の光明皇后だ。彼女はのちに悲田院・施薬院を興した。
それを思うと、阿修羅像のあのまなざしのワケが少しだけ、わかった気になるのだ。衆生救済の心を氏寺の守り神のひとり、阿修羅に託したのではないか。

向田さんはどんな想いで、あの澄んだ目の少年像を見つめ、あのドラマを作ったのだろうか。