ウツるんです#31 真珠湾からNY、そして武漢(2020年12月8日) 

 特異日。1964(昭和39)年の東京五輪開幕日に10月10日が選ばれた主な理由は、その日が晴れる確率の高い特異日だったからだ。
 12月8日。この「特異日」は忘れられない。――1941(昭和16)年のこの日、太平洋戦争が始まった。1980(昭和55)年同日、元ビートルズのジョン・レノンが狂信的なファンに射殺された。そして2019(令和元)年のきょう、中国・武漢で新型コロナウイルスによる最初の感染者が確認された――
 
 私は太平洋戦争の開戦日を社会科で習うより前に、子供向けの戦記物で読んで知っていた。
 「ニイタカヤマノボレ」の暗号を受け択捉(えとろふ)島の単冠(ひとかっぷ)湾を出港した帝国海軍機動部隊は、ホノルル現地時間12月7日朝、真珠湾の基地を攻撃。日曜のアメリカ艦隊に損害を与えた。奇襲成功の暗号「トラ・トラ・トラ」は、大破した戦艦アリゾナの写真とともに、読後半世紀の今も明確に覚えている。

 二つ目の12月8日。ジョン・レノン狙撃のニュースを私は早稲田大学の学生会館で聞いた。当時、所属していた早稲田英語会(WESS)のたまり場だった。犯行は日本時間で12月9日(火)午後零時50分。その日の夕方、ジョン撃たれるの報は瞬く間に学生に広がった。麻雀仲間のS君らとその後、ジョンをしのんで卓を囲んだ。
 犯人マーク・チャップマンと犯行場所のニューヨーク・ダコタハウスの名は、おそらく死ぬまで忘れないだろう。ケネディ暗殺の都市ダラスと容疑者オズワルドという固有名詞が脳裏から消えないのと同じだ。人は強烈な感情とともに覚えた出来事は、忘れない。

 時は流れ、令和最初の12月8日。湖北省武漢市で新型コロナウイルスによる感染者が初めて確認された。ジョンの命日から39年が経ったこの日のことを、私は覚えていない。法学部の学生から新聞記者となり、7年間の夜討ち朝駆けの日々を経て、医学の道に転じてから四半世紀が過ぎていた。
 精神科専門医の私は感染症は門外漢ながら、医師としてパンデミックウイルスの動静は比較的早くから注目してきたつもりだった。だが、「あの日」の記憶がないことは、このウイルスの特徴を示唆しているともいえる。
 潜伏期が長い(数日~半月)。臨床症状発症前から感染力が最大化する。感染者の約8割が無症状か軽症であり、かつ、重症化すると現代医学の粋(すい)をもってしても救命できない場合がある。つまり、それこそ私が ”分断ウイルス” と呼ぶゆえんだ。 
 ステルス戦闘機のように宿主(ヒト)に近づき、おのが住処(すみか)を確保せんとするパンデミック戦略。一番の対策はどこまでいっても「ソーシャル・ディスタンス」。飛沫や接触を介した感染を防ぐ術はそのまま、人と人のつながりを絶とうとする動きにつながる。自粛警察はその鬼っ子だろう。

 コロナ禍のなか、それでも人類に明るいニュースが届いた。日本の探査機「はやぶさ2」が小惑星りゅうぐうの岩石資料を採取したカプセルを地球に届けた。生命起源の糸口になりうる「玉手箱」に、パンドラの箱から出てきた疫病への”中和剤”の希望を見た。

ウツるんです#30呼吸器事件~記者のち医者の視点(2020年11月30日) 

 第9回日本医学ジャーナリスト協会賞の大賞に中日新聞の調査報道「呼吸器事件」が選ばれ、先日、表彰式が東京・日本記者クラブであった。受賞したのは取材班(代表・秦融編集委員)だが、冤罪当事者である西山美香さんの精神鑑定をした私も出席したので、報告したい。

 事件の詳細は、このブログ読者には周知と思うので割愛するが、授賞理由を同協会HPから引用する。
 「24歳の看護助手が患者殺害の罪で逮捕され、13年間、無実を訴え続けた。多くの記者が分担して、西山美香さんから両親への350通の手紙を丹念に読み、裁判記録や中学時代の恩師などの周辺をくまなく取材し、捜査の立証の矛盾を突き止めていく。
 *再審無罪への道のりで重要な役目を果たしたのが、記者の依頼で精神科医師が実施した獄中鑑定だった。この医師は、中日新聞記者として7年間勤務した後、医学部に入り直して医師の道を歩んでいた。ジャーナリストの視点を持つ医師の存在は大きかった。軽度知的障害・発達障害・愛着障害を明らかにし、「供述弱者」を虚偽自白に誘導した冤罪を、精神医学の視点で検証。7回の裁判で有罪認定された困難な状況で、ことし3月に再審無罪になった。
 医学とジャーナリズムの協力によって無実の救済につなげた社会的なインパクトは大きく、冤罪を解く新たな手法として、医学ジャーナリズムに新境地を開いた。」
 第2段落(*)がなんとも面映ゆいが、表彰式当日、進行役の大熊由紀子理事からストレートに訊かれた。「どうして記者から医者になったんですか?」。これまで何度も出くわした質問。ときには「魔が差して」と応じることもあったが、医学ジャーナリスト協会の面々を前にそれはないと思い、こう返した。
 「新聞記者時代、昭和天皇の手術をした先生の担当になったことなどもあって、医学に近づきました。(なにより)自分自身のこころの問題を追求していくことに関心が向いたことが大きかったです」
 「医者と記者の違いはローマ字でいえば、”K”一文字の違いです。人の話を聴くという意味では本質は同じです。記者時代の経験が今の仕事に役立っていると思います」
――KISYA-ISYA=K。還暦も近づき、そろそろ髪の”K”の気になる時期に立派な賞に巡り合えて幸いだった。


 

ウツるんです♯29「憂国忌」にあらためて思う(2020年11月25日)

 11月25日は「憂国忌」。三島由紀夫が東京・市ヶ谷の陸上自衛隊駐屯地で決起を訴え、自害してから50年。作家であり、行動人であった三島の最期をめぐり、夥しい数の論評がなされてきた。それは磯田光一が「三島氏の死はすべての批評を相対化しつくし」たと書いたように、ブラックホールのように戦後民主主義を吸収するかのようだった。
 1970(昭和45)年の事件当時、私は愛知県の地方都市に住むいち少年だった。記憶をたどって出るのは、大阪万博で、アポロ11号が持ち帰った「月の石」を拝むため汗だくで並んだ夏の日と、さわやか律子サンのボウリングブーム、それにテレビで女性の裸が見られる「時間ですよ」の番台シーンぐらいだ。
 その2年後のあさま山荘事件をくっきりと覚えているのとは対照的に、あの日の三島の姿は、報道ヘリの爆音と自衛隊員の怒号にかき消された彼の声とともに、どこかへ行ってしまったようだ。

 後年、新聞記者になってから三島の代表作「金閣寺」を読んだ。――「私の少年期は薄明の色に混濁していた。真暗な影の世界はおそろしかったが、白昼のようなくっきりした生も、私のものではなかった」――目が眩んだ。言葉とはこういうふうに扱うものか。そうひとり嘆じたのをくっきりと覚えている。
 宮内庁担当のとき、昭和天皇が那須の御用邸で静養する夏の取材でのこと。キャップのM記者が空き時間に原稿のマス目を埋めていた。ダグラス・グラマン事件で大スクープを放った先輩が軍用機の話を書いている。記事ではなさそうな雰囲気に尋ねたら、「小説のたね」だという、鵜のまねをする烏となるのが目に見えるゆえ、後に習うことはしなかった。
 
 医者になってから読んだのが、三島の小説「音楽」。精神分析医における女性の冷感症の一症例と扉に記した作品に、こころ医者として興味をそそられた。大衆誌に載り、対象読者層が異なるのか、言葉遣いも金閣寺とは異なり平易で、サスペンス仕立てだったが、フロイトの性理論を踏まえていて、得られた感慨は満足のいくものだった。
 数多くの“三島本”を買い漁ったなかの一冊「平凡パンチの三島由紀夫」(椎根和著、新潮社)に「音楽」について言及したくだりがあった。
 1966(昭和41)年夏、三島邸に男の侵入する事件があった。「蒼白な顔の青年は、、書斎に入り込み、」百科事典の一冊をながめていた。そして、三島にむかって『本当のことを話して下さい』と三度繰り返し」たという。
 三島はこの侵入男のことを小説「荒野より」の中で、「私は自分の影がそこに立ってゐるやうな気がした」と書いた。
 著者の椎根氏はその後、国立精神衛生研究所の片口安史氏が「ロールシャッハ・テストを使って、、ひじょうにつよい内向的な性格である」と判定したと記している。「感情におぼれず、むしろそれをきらい、現実逃避的な態度と、つよい知性的な適応のしかたをしめしている。現実にじかにふれることをさけながら、かえってつめたく現実をみている」のが三島のテスト結果だという。

 三島由紀夫が文章のひとつの範とした森鷗外は「テエべス百門の大都」と評されたが、三島のこの精神分析的評価を首肯する者がどれだけいるのか、こころ医者としての私は、賛成に一票をいれたい。
 
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