チョコが死んだ――
 秋の彼岸入りした週末、拙宅の飼い犬、トイプードルのチョコが15年2ヶ月の生を終えた。飼い始めた平成17年夏、共働きの我が家では、小学生だった子どもたちにとって格好の遊び相手だった。もっとも、散歩はもっぱら親の役目だったが。
 人間のおよそ5倍の速さで年を取る犬にとって、令和は後期高齢者に等しい時代だった。今年冬、チョコがだんだんと痩せてきたのに気づいた。血便も出て、動物病院に連れて行ったときには、肝臓と腎臓がやられ、貧血が進んでいた。飼い主夫婦が医者であることは全く役に立たなかった。
 家族みんなで気をもんだ。桜は見られるだろうか?寝床代わりだったソファの座面までの35㎝が跳ね上がれなくなった。食もさらに細くなり、あばらが浮き出た。ドッグフードは食べずバラ肉を好むようになり、病状が進んでのちは饅頭のあんだけしか受け付けなくなった。
 獣医も驚くぐらい一時は持ち直したが、やはり、奇跡は起きなかった。昨日、夜中にむっくり起き上がると、しっかり立てない後ろ足を引きずって、トイレをし、妻の目前でガクッと倒れた。それっきりだった。妻が調べたら、トイプードルの平均寿命は15.2歳。ぴったりだ。
 亡骸を段ボールに納め、24時間電話受付の動物霊園に連絡して、葬儀をした。人間の家族葬のように、専用の炉で焼いてもらい、骨拾いをした。のどぼとけはヒトと同じ形をしている。人間とはっきり違うのは、立派な犬歯と尻尾の骨だった。ああ、犬だなあと思った。

 フランスの哲学者ジャンケレヴィッチ(1903-1985)は人の死を一人称(悲劇の主体=自分)、二人称、三人称(無名性=他人)に分ける。ここでいう二人称は「目の前にいるあなた」ではなく、死者の個別性を深く認識する、平たく言えば、親しい人を指している。
 養老孟司氏はこれに注目し、解剖学者らしく、死を「死体」として考えたときのことを述べる。死体もまた人称変化し、「人」である。戦友の遺骨収集は死体もまた生きていることを示す好個の例だと。

 コロナ禍で一番心傷んだニュースは、死者の葬儀に家族らが立ち会えないことだった。感染防止がその理由だが、二人称の死という最も個別的なことにたいして公がどこまで介入できるのか?
15年もつきあったチョコの死に際し、家族皆がウイルスのことなど忘れて、何度も何度もそのからだをさすっていたことを書き留めておくべきだろう。