4年半前にクリニックを立ち上げて以来、毎年この日に院長ブログをしたためる。その理由は過去4回分のアーカイブ『10月10日は体育の日』を読んで下さると分かる。平成最後の神無月に、「スポーツ・アマチュアリズム・商業主義」の三題噺を書いてみたい。

クーベルタンがギリシャオリンピアの復興を唱え、1896年アテネで始まった近代オリンピック。しかし、「平和の祭典」の美名のもと開催された五輪は、2度の世界大戦で中断。政治的理由での参加ボイコット国が出たり、商業化との矛盾が深刻化したりと、スポーツの意義が問われ続けてきた。

そもそも、近代オリンピックにアマチュアリズムが導入されたのはなぜか?
おそらく多くの人が誤解しているだろう。オリンピックがアマチュア選手の大会となったのは、第4回ロンドン五輪(1908年) からで、クーベルタンの祖国フランスで開催された第2回パリ大会は万国博覧会の付属競技大会に過ぎず、賞金が出された。
日本が初参加した第5回ストックホルム大会になって、陸上五種・十種競技で圧勝した米国のジム・ソープがマイナーリーグで俸給をもらっていた事実を理由に金メダル剥奪される。
では、アマチュアリズムは称賛されるべきか?

それには、近代スポーツの起源を問わないといけない。
スポーツから音楽まで幅広い評論家玉木正之氏の『スポーツとは何か』(講談社現代新書)をひも解くと、こうある。
「スポーツの基本は、遊びである、、ところが、明治時代に欧米からスポーツを輸入した日本人は、遊びであるはずのスポーツを遊ぶことができなかった」
これには富国強兵と殖産興業をスローガンに掲げて西欧の仲間入りを目指した日本の“お家事情”が背景にある。<遊びをせんとや生まれけむ>(梁塵秘抄;平安時代末期の歌謡集)に代表される遊び好き日本人のもう一つの民族的特質<勤勉>が支配したときスポーツがやってきたというわけだ。

アマチュア〔ラテン語で愛好家の意〕という言葉がスポーツ大会の参加規定に登場したのは1839年。ロンドンはテムズ川で行われたボート競技「ヘンリ・レガッタ」とされる。参加を許可されたのはオックスフォード、ケンブリッジなどの超エリート校学生のみだった。
同書には「アマチュアリズムとは、産業革命によって王侯貴族に代わって権力を掌握したブルジョワジーが、労働者を排除するためにつくりあげた差別思想」とある。
明治維新以来、近代化の道を進んだ日本では、エリート子弟の通う帝国大学がスポーツを含む欧米文化の担い手となった。
オリンピックにおいて、第二次大戦後もアマチュアリズムの建前の続くなか、大会規模の肥大化・商業化とともに東西陣営の政治的対立と並ぶ難題となったのが、社会主義国のステート・アマであり、自由主義陣営の企業アマだったのは皮肉というよりない。

いっぽう、完全民営化された1984年のロサンゼルス大会以前に「商業五輪」の道は開かれていた。スポーツライター小川勝氏の『オリンピックと商業主義』(集英社新書)によれば、すでに1972年のミュンヘン大会で、エンブレムの商業的活用やマスコット販売など五輪関連商品の民間収入がTV放映権と並んで、税金と入場料で賄えない大会運営費の支え役となった。
こうして、もはや堰止められない商業化の波に加え、米国デンバーで行われた冬季五輪開催を問う住民投票での史上初のオリンピック返上事件(戦争を除く)が決め手となり、アマチュアリズムを信奉するブランデージ氏から替わったキラニン会長の1974年、IOC憲章から「アマチュア」の文字が削除された。

ここでしかし、と僕は思うのだ。アマチュアリズムの来歴がどうであれ、スポーツを好きになることにプロもアマもないと。ゴルフでも囲碁将棋でも、いちばん観ていて面白いのはプロアマ混合のオープン戦だし、素人の目線や発想はプロに刺激を与えることもある。
プロフェッショナルは、僕の好きな言葉ではあるが、それはアマチュアを排除することではない。問題は、イズム(=主義)のほうなんだろうと。

21世紀となっても4年に一度開催されるオリンピックは、ほかのスポーツ大会とは異なる次元の問題を抱える半面、スポーツそれ自体の醍醐味を堪能させてくれる掛け替えのない舞台でもある。
その意味で、二度目の開催を2年後に控えた東京都の小池知事が「アスリート・ファースト」と言挙げしたことを評価し、もしそれが本当なら、猛暑の盛りの8月日程は今からでも変更可能!と強く提唱したい。
巨大市場アメリカの視聴者のために百メートル決勝の競技時間を変更したソウル五輪以降のような商業主義を、真のスポーツ愛好者は望んでいないはずだ。

『体感温度を数度下げるアスファルト開発という“小手先”でなく、堂々と開催スケジュールを繰り下げようでないか。開会式は、そう、晴天特異日から決まった1964年東京オリンピックと同じ10月10日にすべきだ』ーー高校時代に聖火リレーを走った僕の中学の体育恩師・故長谷川金明先生。抜けるような秋空の上から、きんめい先生がそう語りかける声が聴こえてきた――