11月25日は「憂国忌」。三島由紀夫が東京・市ヶ谷の陸上自衛隊駐屯地で決起を訴え、自害してから50年。作家であり、行動人であった三島の最期をめぐり、夥しい数の論評がなされてきた。それは磯田光一が「三島氏の死はすべての批評を相対化しつくし」たと書いたように、ブラックホールのように戦後民主主義を吸収するかのようだった。
 1970(昭和45)年の事件当時、私は愛知県の地方都市に住むいち少年だった。記憶をたどって出るのは、大阪万博で、アポロ11号が持ち帰った「月の石」を拝むため汗だくで並んだ夏の日と、さわやか律子サンのボウリングブーム、それにテレビで女性の裸が見られる「時間ですよ」の番台シーンぐらいだ。
 その2年後のあさま山荘事件をくっきりと覚えているのとは対照的に、あの日の三島の姿は、報道ヘリの爆音と自衛隊員の怒号にかき消された彼の声とともに、どこかへ行ってしまったようだ。

 後年、新聞記者になってから三島の代表作「金閣寺」を読んだ。――「私の少年期は薄明の色に混濁していた。真暗な影の世界はおそろしかったが、白昼のようなくっきりした生も、私のものではなかった」――目が眩んだ。言葉とはこういうふうに扱うものか。そうひとり嘆じたのをくっきりと覚えている。
 宮内庁担当のとき、昭和天皇が那須の御用邸で静養する夏の取材でのこと。キャップのM記者が空き時間に原稿のマス目を埋めていた。ダグラス・グラマン事件で大スクープを放った先輩が軍用機の話を書いている。記事ではなさそうな雰囲気に尋ねたら、「小説のたね」だという、鵜のまねをする烏となるのが目に見えるゆえ、後に習うことはしなかった。
 
 医者になってから読んだのが、三島の小説「音楽」。精神分析医における女性の冷感症の一症例と扉に記した作品に、こころ医者として興味をそそられた。大衆誌に載り、対象読者層が異なるのか、言葉遣いも金閣寺とは異なり平易で、サスペンス仕立てだったが、フロイトの性理論を踏まえていて、得られた感慨は満足のいくものだった。
 数多くの“三島本”を買い漁ったなかの一冊「平凡パンチの三島由紀夫」(椎根和著、新潮社)に「音楽」について言及したくだりがあった。
 1966(昭和41)年夏、三島邸に男の侵入する事件があった。「蒼白な顔の青年は、、書斎に入り込み、」百科事典の一冊をながめていた。そして、三島にむかって『本当のことを話して下さい』と三度繰り返し」たという。
 三島はこの侵入男のことを小説「荒野より」の中で、「私は自分の影がそこに立ってゐるやうな気がした」と書いた。
 著者の椎根氏はその後、国立精神衛生研究所の片口安史氏が「ロールシャッハ・テストを使って、、ひじょうにつよい内向的な性格である」と判定したと記している。「感情におぼれず、むしろそれをきらい、現実逃避的な態度と、つよい知性的な適応のしかたをしめしている。現実にじかにふれることをさけながら、かえってつめたく現実をみている」のが三島のテスト結果だという。

 三島由紀夫が文章のひとつの範とした森鷗外は「テエべス百門の大都」と評されたが、三島のこの精神分析的評価を首肯する者がどれだけいるのか、こころ医者としての私は、賛成に一票をいれたい。