ステイホームウィーク(GW)が終わり、政府は緊急事態宣言を5月末まで延長した。コロナ倒産が増えているのを見ればわかる通り、このまま社会活動の自粛要請が続けば、コロナ感染を上回る経済的犠牲者が予想される。
 しかし、命か金かという問いは立て方が悪い。人間は社会的動物なので、人体なら血液に相当する貨幣が循環しなければ、ウイルスによる重症化と同じ現象が生じる。宣言解除の出口戦略が大事なゆえんだが、何を根拠にするかといえば、結局、医学的数値に帰着する。
 大阪府は独自に、自粛の解除条件として基準「大阪モデル」を発表した。①感染経路不明者10人未満②検査陽性率7%未満③重症患者の病床使用率60%未満――3項目すべてが1週間続けば、段階解除。ただし、解除後に数値が悪化すれば再び自粛要請する、とのこと。
 知事の権限を巡って、西村経済再生担当相とのあいだで軋轢も生じたようだが、ここで留意すべきは「数字=客観的=正しい」という等式が多くの人にア・プリオリ(無条件)に受け入れられることだろう。
 その反証として、極端だが次の例を出してみよう。あるテストの結果、集団Xと集団Yの両方とも平均点は50点。では、どちらも内容は同じか?実はXのメンバーの各点数はa:100点、b:50点、c:0点。Yの方はp:60点、q:50点、r:40点。数値それ自体に正誤はない。問題はそれを読み取る側にある。
  
 新聞記者時代の昭和62年9月。昭和天皇が十二指腸の悪性腫瘍となった。宮内庁担当の私は翌年秋から下血して療養する天皇の容体を連日報道。血圧や輸血量が毎日紙面に載った。振り返れば、数字自体に何の意味があったのか。その評価は「当事者」にはなかなかできない。鏡なしに自分の顔を見ることができないように。
 当時、天皇の手術で執刀した森岡恭彦東大教授への取材で、結果が見えているが、公表できない辛い立場を表した教授の言葉が記憶に残った。「出口なし」――哲学者サルトルの戯曲に由来する表現と後から知った。
 あれから30年余。時代は大震災の続いた平成をまたいで令和。「出口」を探す日々がしばらく続く。