先日、高校〔同期会でなく〕同窓会で講演をした。愛知県で一番古い学校〔創立141年〕で、新制旭丘高校となってからもずいぶん経つ。数年に一度、講師当番が同期に回ってくるのだが、今回光栄にも指名された。題は『記者のち医者ときどき患者』。
50数人の先輩、同期生を前に「ときどきならぬ、どきどきしています」と切り出し、自分の半生と心療内科で多く出会う病気について話した。詳細は1月発行の同窓会誌『鯱光』に掲載されるので、きょうは講演のテーマ「物語」について書く。

いま、医療界主流の考え方はエビデンス・ベースト・メディシン(EBM)。医学的根拠に基づいた客観的な医療で、個々の医師の経験や力量だけに頼らず、統計的有意性を基にガイドラインに沿って行うもの。誰もが同じ水準の医療を受けられるメリットがある。ただデータ中心主義で人間味が薄れ、「医者が患者でなくパソコン画面ばかり見て治療する」などと揶揄されることもある。〔それは本来のEBMとは異なるが〕
そこで提唱されているのがナラティヴ・ベースト・メディシン(NBM)。ナラティヴとはナレーションと同語源で、「物語ること」。細分化された現代医療のはざまを埋めるべく、患者さんの疾病の経過(ヒストリー)に沿って病の物語(ストーリー)を共有することで、個別(オーダーメイド)で多元的な医療を展開していくものだ。それだけに医療者側に高い知識と倫理観が求められる。
講演では新聞記者から精神科医に鞍替えした来し方を語ることで、心身医療について出席者に伝わるものがあればと考えた。いま改めて振り返り、「物語」で思い出すのが、村上春樹氏の「カキフライ理論」だ。(以下『雑文集』新潮文庫より。敬称略)

哲学者大庭健の著書『私という迷宮』の「解説みたいな」文章で、村上はこう記す。
「小説家とは、多くを観察し、わずかしか判断を下さないことを生業とする人間」
「良き物語を作るために小説家がなすべきことは、、仮説〔註:意識のない猫の例え〕をただ丹念に積み重ねていくこと」
そして、読者からの「原稿用紙4枚で自分自身を説明することはできますか?」の問いかけにこう答えるのだ。
「小説家とは世界中の牡蠣フライについて、どこまでも書き続ける人間」。つまり、牡蠣フライと自分とのあいだの相関関係や距離感について書くことを突き詰めれば、自分自身について書いたことになる(=牡蠣フライ理論)というのだ。やれやれ。
この文章の「小説家」を「科学者」や「医者」に置き換え、「牡蠣フライ」を「患者」に置き換えて何の不都合もないと感じたのは、これを読んだ時だった。そして、今回の講演で記者と医者の関係を考えたとき、なあんだ、記者も医者も同じではないか、と腑に落ちたのだ。
村上はこの後オウム真理教に言及。物語を提供する点ではオウムと小説家は似ているが、人生(=現実)という「継続性の切断」をすることで、オウムは現実を単純閉鎖化するゆえ人を酸欠状態に追い込むと批評する。そして、こういうのだ。
「物語とは魔術である、、継続性とは道義性、、道義性とは精神の公正さのことだ」。
村上がこの文章で一番言いたかったのは、おそらく、物語が開かれているかどうかという点だろう。

牡蠣フライを5個でなく、8個食べたいときにそれを許容する社会の構築。物語は、続く。――きょう、11月23日勤労感謝の日は「カキフライの日」。さあ、いつもの洋食店『三栗』に食べに出かけよう。