正月を除けば、八月ほど上旬と下旬で「季節感」の変わる月は無い。これは終戦の日(8月15日)の存在ゆえだが、もう一つある。それが、夏の甲子園野球だ。

1915(大正4)年に始まった全国高等学校野球選手権大会。戦時中を除いて今年で百回を数え、大阪桐蔭高が新調された深紅の優勝旗を手にした。今大会から導入された延長12回以降タイブレーク制や、史上初の逆転サヨナラ満塁ホームランなど、見どころ満載の大会だった。
当欄では2回、甲子園がらみのコラムを掲載した。〔アーカイブ2014.8.31『雨の8月・甲子園の詩』同2015.8.6『百年を担う球児たち~“血染めのボール”』参照〕
作詞家・阿久悠は昭和54年から平成18年まで、夏の甲子園全試合をスコアブック片手にテレビ観戦し、球児たちを讃える文章をつづった。戦中派の阿久さんにとって、戦後民主主義の原点は「野球・歌謡曲・映画」だったからだ。

ここでは阿久悠とは違った視点から夏の甲子園をながめてみたい。
僕の出身校である旭丘高は、前身の愛知一中時代、第三回大会(大正6年)で全国優勝している。翌年の第四回は米騒動で中止という時代だった。一中野球部は創部125年と甲子園より長い歴史を持つ。マラソン校長で知られる日比野寛(1899-1916在任)の方針「正義を重んぜよ、運動を愛せよ、徹底を期せよ」の下で野球部も鍛え上げられた。
第三回大会はまだ甲子園のできる前で、兵庫・鳴尾球場で開催。大会出場数も12校と少なかった。その中で愛知一中は初戦敗退。しかし、当時は敗者復活戦があった。和歌山中に1-0で辛勝すると、続く準々決勝、準決勝とも1点差で勝利した。
決勝の関西学院中戦。一中にとっての幸運はさらに続いた。一点差を追う6回裏二死での降雨ノーゲーム。あとワンアウトの土壇場で敗北を逃れた。翌日の再試合は延長14回のサヨナラ勝ち。甲子園史上唯一の“敗者優勝”となった。
いまでこそ“私学4強”といわれる愛知高校野球だが、戦前戦後しばらくは一中のほか、愛知商(現瑞陵高)、四中(現時習館高)、一宮中(現一宮高)など、公立の進学校も強かった。文武両道が当たり前の時代があった。

一度負けた学校に優勝旗が渡るのはおかしいと、敗者復活戦は以後の大会で廃止された。
平成のいま、振り返って思うのだ。オリンピックの野球・ソフトボールで敗者復活戦が“復活”している。それで、スポーツの面白さが減るわけではない。
人生だって同じじゃないか?ーーいちど負けても、次があるさ。いや、負けて勝つ、ということだってあるぞ。高校野球のセンチュリーヒストリーから学べることは、もっとある。甲子園が終わって、忍び寄る秋に考えたいテーマ――