8月2日は赤塚不二夫没後10年。告別式でタモリが「私もあなたの数多くの作品の一つです」と白紙の巻物を手に弔辞を述べたエピソードが、なぜかまだ記憶に生々しい。

そう、新人類と呼ばれた僕ら60’s世代にとって、赤塚ギャグは三度の食事みたいなものだった。おそらく、「シェー」のポーズをしたことのない子どもは(女の子も含め)いないと思うし(ゴジラだってやっている)、悪態をつくときに「こんニャロメ!」と言ったことのないガキどもは少数派だったはずだ。

個人的なことを書けば、漫画の神様・手塚治虫は別にして、僕の少年期の人格を形成した“芯”が梶原一騎と赤塚不二夫だった。
高度経済成長期に生まれ育った人間にとって、青春劇画の原点である『巨人の星』と『あしたのジョー』は教科書より大切なテキスト足りえた。根性と無頼の混交、自由と束縛の止揚が主旋律となって、わが脊柱に筋金を入れてくれた。
その一方で、厳格なまでにくだらなさを追求した『天才バカボン』や『おそ松くん』は、梶原イズムの放つ泥臭さを軽やかに吹き飛ばしてくれた。それは単なるお笑いではなく、むしろ現代思想のシュールレアリスムに通じるものがあったと、今にして思う。

「だよ~ん」「~ざんス」「おでかけですか、レレレのレ」などのフレーズはTVアニメ全盛時代の電波にも乗り、日本全国津々浦々に広まった。
そして、バカボンのパパの決まり文句「これでいいのだ」。
太陽が西からのぼっても、それを真に受ける。コペルニクスもびっくりの哲学だ、これは。
NHKドラマにもなった『赤塚不二夫自叙伝 これでいいのだ』〔文春文庫〕を読んで、ハタとひざを打った。

昭和10年、不二夫(本名藤雄)は旧満州で生まれた。新潟の農家出身の父、藤七は元憲兵。ところが上官の理不尽さに我慢ができず辞職。その後、満州国警察官として中国人ゲリラ防諜(ぼうちょう)活動の特務を担っていた。
藤七の首には今なら数百万円の懸賞金が掛けられていた。それでも生き延びたのは、藤七が下働きの中国人にも平等に物資を分けていたからだ。「敵も味方も同じ人間じゃないか」。ゲリラ襲撃時に、赤塚家は中国人の格好をしてかくまわれ、難を逃れた。隣りの日本人一家は惨殺された。
自宅では長男の藤雄ら6人の子の戸主として威厳をふるまった。藤雄の箸の持ち方が悪いと、容赦なく手が出た。そのかたわら、藤雄を宴席や仕事場に連れていき、現場の生々しさを体験させた。
藤七は戦後、シベリア抑留される。4年ぶりに帰国した藤七は、すっかりやせ衰え、警察官の跡を継がせる夢はどこへやら、藤雄の漫画家への思いを認める好々爺になっていた。
昭和43年、結核で入院。奇跡の生還をした後、藤雄の母リヨがくも膜下出血を患い、59歳で先に逝った。自他ともに認めるマザコンの藤雄にとって突然のことだった。藤七がリンパ腺癌で亡くなったのはその9年後、息子がギャグマンガの王様と仰がれた時期だった。

バカボンのパパのモデルは、赤塚不二夫の父親・藤七。「これでいいのだ」は藤七の満州時代の人生を振り返って出てきた、自然な言葉なのだ。自叙伝のあとがきで不二夫はこう書いている。
「家族を悲惨な目にあわせる戦争だけは、もう二度と起こしてはならないと思う」