師走入りとともに冷たさを増す北風に乗って届いたニュースが気になっている。
今秋、異例の長雨と早々と南下した寒気のために野菜の生育が遅れ、苦境に立たされる農家の様子をテレビで報じていた。10月の週末、続けて日本列島を縦断した台風の影響で茎の曲がったブロッコリーが商品にならなくなり、畑で嘆く男性の背中を見て思い出したテレビドラマがあるーー

『ふぞろいの林檎たち』〔山田太一原作・脚本、昭和58年~放送〕。都心の無名大学に入った主人公、良雄と同期の健一、実の3人は、女子大生をお友達にしようとテニスサークルを立ち上げたが、参加したのは看護学生の陽子と晴江、そして本物の女子大生だが力士体格の綾子だった。番組は6人の学生生活を軸に、落ちこぼれの烙印を押された若者たちの揺れ動く姿を描くことで、学歴社会へのプロテスト(抗議)を含んだ名作に仕上がっていく。

サザン・オールスターズの主題歌『いとしのエリー』が流れる中、新宿高層ビル群をバックに不ぞろいのリンゴがお手玉のように空中に放られるシーンはおそらく、あの時代の若者の脳裏に焼き付いて離れないはずだ。同世代の僕としては今も、スーパーでリンゴを選ぼうと手に取るや、条件反射的にあの場面を思い出す。そして、瞬時、自らを省みるのだ。少しでも形の良いリンゴを選ぼうとしていないかと、、。

この秋、経済ニュース面をにぎわせたのは神戸製鋼や三菱マテリアルなど、一流と呼ばれる企業の品質管理データ改ざん事件だった。もっと突っ込んで知りたかったのは、改ざんの「数値」が技術的にどこでどういう理由で決定されたかということだった。実際の使用に問題ないのなら、その安全“のりしろ”を踏まえたうえでの決断だったのか。これがバブル以降失われし20年のツケなのか?

私淑する養老孟司氏がつとに指摘するように、現代人は環境を自分たちの脳に合わせようと人工化(=都市化)してきた。「ああすれば、こうなる」社会では、ネジが歪んでいては建物は倒れ、社会の存立が危ぶまれる。都会の道路でけつまずけば「だれがここをデコボコにした。責任者出てこい!」というわけだ。だが、山道で木の根っこに足を取られても、「それは気づかないあなたのせいでしょう」。自然に直線はない。

工業製品のごまかしは社会問題になるが、農産物の“ずる”、すなわち規格化によるいびつな商品の排除とコスト最優先の安全無視(農薬、添加物の問題など)は、ほとんど話題に上らない。それを口にする者たちの健康は数値化が困難ゆえ、スルーされてしまうのが都市化社会の宿命なのか。

改めて、問おう。障害を持つ人たちの存在を危うくしているのは、ふぞろいの林檎を切り捨ててきた私たちの心の中に巣食う“ムシ”ではないのか?異形(いぎょう)の放つ見えない光を受け止める感受性を持つ眼(まなこ)を持てるようにするための取り組みが社会的に求められるのが、ポスト・平成時代なのだろう。