「あの日」も子供たちは、授業を受けていたーー東日本大震災から6年。毎年この時期になると、未曾有の惨事をすべての日本人が思い起こす。いまも12万3千人が避難生活を続け、2553人の行方不明者がいる。去年の当欄では、福島第1原発事故を「文明災」と呼んだ梅原猛氏の主張を元に、喪の作業について書いた。今年は“割り切れない悲しみ”について記しておきたい。

3.111446 vs 3.141592…一見よく似た数字列の対比。だが、違いは明白。前者はマグネチュード9.0最大津波高40mの地震発生時刻。後者は円周率。数字遊びのつもりは無い。
ゆとり教育時代の頃だった。小学校で円周率を教えるのに「およそ3」で良い、とする議論に待ったがかかった。円の全周長を求めるための基本数π(パイ)は割り切れず無限に続く[無理数]。それを、学習指導要領ではまだ小数点を教えていないという理由で、「状況により3」にしてしまってはπの本質が抜け落ちてしまう。
半径1の円に内接する正六角形の周囲長は6。この円の長さは2π r=6.283184…。もし円周率を3とすると、円と六角形が重なってしまう。明らかな矛盾。自然には割り切れないことがあるという真実を小学生に教えないことが「ゆとり」なら、そんな代物はノーサンキューだろう。

小雪舞い散る2011(平成23)年3月11日午後2時46分。宮城県石巻市立大川小学校ではいつもと同じ授業が続いていた。円周率を算数の時間に習っていたかは不明だが、津波情報は確かに学校側に届いていた。
校長不在の中で教師たちは悩んだに違いない。同校は河口から5㎞。地震対策マニュアルでは近くを流れる北上川を津波が遡上する予想は3キロで、大川小は1次避難場所にもなっており、近くの老人ホームからもお年寄りが集まってきた。
歴史に「もしも」は禁忌と言われるが、もし児童たちがすぐ隣の裏山に逃げていたら、という批判は有り得る。いざとなったら各自で逃げよという“津波てんでんこ”の教えが活かされず、校庭での点呼後、集団で逃げる方向の川から津波が押し寄せ、児童74人が犠牲となった。
昨年、大川小校舎の保存が決められた。割り切れない思い出を象徴する学舎(まなびや)を後世に残す意義…

福島第一原発での放射能漏れ事故で、周辺住民約6万人はいまだに県内外で避難生活を送る。“文明災”から6年経ったこの春、避難解除区域が広がることになった。しかし、彼らの思いは複雑だ。住み慣れた我が家に戻れると手拍子に喜ぶことはできない。
ひとつは目に見えない放射能の影響が本当にどうなのか?3年後に東京オリンピックを控え、避難解除を急がされているのではないか?ある町の住民の44%が帰還政策は急ぎ過ぎと答えている。帰還すれば補助は打ち切られる。今後も地元で生活し続けることができるのだろうか。苦悩は尽きない。
特に心配なのは子供たち。医学的に放射能の影響をより受けやすい。心の問題も深刻だ。避難先でいじめを受けることも少なくない。6年経ちむしろ増加するうつ病の人たちへの対応を含め、国や自治体、医療がやるべき課題は山積している…

思い出す光景がある。31年前の夏。新聞記者をしていた頃。その前年8月12日に起き、520人の犠牲者を生んだ日航ジャンボ機墜落事故の取材で、生き残った母娘に単独インタビューをした時のこと。
吉崎家宅に上がり込んで、事故1年の区切りにと話をうかがっている時、かたわらにいた美紀子ちゃん(当時9歳)の祖母が、ポツリとつぶやいた。
「節目、節目って言うけどさ、悲しみに節目なんか無いじゃんねえ…」
割り切れない思いを抱きながら紙面に載せたことが、今も脳裏の片隅から離れない…