十年一昔をひと区切りとすれば、4回もさかのぼりし昔の話。
詰め襟に五分刈り頭の中学二年生が、生まれて初めて 女の子から贈り物をもらった。ーーそう、バレンタインデーのチョコレート。交際することもなく、当時はホワイトデーなるお返しもなく、沈黙のままお礼をしたかどうかさえ忘却の彼方。甘酸っぱい感触だけが心の片隅に残る。

成書によると、日本でバレンタインデー(Vデー)が生まれたのは1958(昭和33)年、世間に定着したのが70年代後半〔ということは、僕の場合はその走りだったか、、〕。いまや義理チョコ、友チョコ、自分チョコと業界あげての年中行事となった感が強い。
おそらく大多数の人にとって、クリスマス同様キリスト教と深い関係があるとの共通認識だろう。だが実際は、Vデーには複雑な歴史があるようだ。
Vデーの起源とされる古代ローマのルペルカリア祭。結婚の女神ユーノ(Juno、六月Juneの語源)と豊穣の神マイア(Maia、五月Mayの語源)を祭る。
当時、ローマ帝国の若者男子は女子と分かれて生活をし、ルペルカリア祭の時のみクジで当たった女性と一緒に過ごせる習わし。そこで夫婦となる男女も多かった。キューピッド役をしていたのが司祭のワレンティウス(バレンタイン)。異国で戦う兵士が妻を故郷に残しては士気に関わると懸念したローマ皇帝は、風紀を乱すとの理由で彼を処刑する。
異教徒の祝祭であるルペルカリア祭を排除したかったキリスト教会はこれに乗じ、殉教の日をバレンタインデーとした〔これには異説もある〕。以来、Vデーには男女の愛の告白がつきものとなった〔チョコレートとは関係無い〕。

芥川賞作家の遠藤周作(1923-1996)はクリスチャンだった。〔僕ら世代にはインスタントコーヒーのテレビCM、孤狸庵先生でお馴染みだが〕。終生、日本の精神風土とキリスト教との関係を追究した彼の代表作が『沈黙』(1966)。世界20ヶ国以上で翻訳されている。
舞台は17世紀、江戸初期の長崎。鎖国政策が進み、キリシタンが弾圧されるなか、布教途中に師が棄教したとの噂が本国ポルトガルに届いた。真偽を確かめるべく、同僚司祭と長崎に潜入した主人公ロドリゴは、日本人信徒に降りかかる拷問と殉教に接し、苦悩する。しかも、かつての師は改宗して妻帯、日本名を名乗り、ロドリゴを諭してきた。
「この国は考えていたより、もっと恐ろしい沼地だった。どんな苗もその沼地に植えられれば、根が腐りはじめる」。
逆さ吊りの拷問を受ける信徒を目前にし、ロドリゴは最後に“踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている”と神の声を聞く。

「神の沈黙」という重いテーマを描いたこの傑作がことし、映画化された。
ニューヨークの労働者階級に育ったマーティン・スコセッシ監督は幼少時、司祭になりたかったという。「人間は本来、善なのか悪なのか?」と贖罪をテーマに映画を撮り続けてきた。原作を読んで28年。遠藤氏没後20年を経て、監督の想いが実現した。
バレンタインデー目前の日曜、映画『沈黙-サイレンス-』を観た。小説を読んでいたので、3時間近いフィルムを追ううちにデジャ・ヴ(既視感)にとらわれた。主人公役のアンドリュー・ガーフィールドはもちろん、ロドリゴを何度も裏切り、ユダを連想させる日本人信徒キチジロー役の窪塚洋介や、通訳役の浅野忠信ら日本人俳優の演技が素晴らしかった。そして、残酷なまでに迫真的な拷問場面が両のまぶたを刺激した。

遠藤周作氏は別の文章でこう書いている。
「弱者―殉教者になれなかった者―たちは政治家からも歴史家からも黙殺された、、彼らが転んだ(註:棄教のこと)あとも、ひたすら歪んだ指をあわせ、言葉にならぬ祈りを唱えたとすれば、私の頬にも泪が流れる、、彼らを沈黙の灰の底に、永久に消してしまいたくはなかった、、」

当院患者さんで、カトリック信者の夫に先立たれ、悲しみを抱えながら独居生活を続ける女性がいる。彼女はときおり、神父さんに告悔をし、自分を保っている。自殺できないのがつらい、といわれる。診察では、薬は睡眠薬一種類のほか出さない。いわば、神父さんの補助役をしていると思っている。
彼女が遠藤周作読書会に参加していると聞いた。『沈黙−サイレンス-』は怖くて観れそうにないといっていたが、ぜひ鑑賞を勧めたい。そして沈黙の声を聴けたか、訊いてみたい。