鷽〔ウソ。学名ピルフラ・ピルフラ・リネウス。スズメ目アトリ科〕。古来、學問の神・菅原道真ゆかりの鳥として知られる。木彫りの鷽を正月に新調することで、前年の凶事を「うそ」にして幸運に「とり」替える鷽替え神事が各地の初天神で執り行われる。ーー

酉年早々のビッグニュース。大相撲 初場所で大関稀勢の里が優勝し、19年ぶりの日本人横綱誕生となった。
茨城県牛久市の中学を卒業して角界入りした萩原寛少年は鳴門部屋に入門。たたき上げで苦節15年、力士の頂点に立った。今場所14日目に横綱白鵬が破れ、優勝が決定した時に流した涙には、言い尽くせぬ思いが込められていただろう。
「稀勢の里」のしこ名は、おしん横綱(隆の里)として知られた先代師匠鳴戸親方から「稀(まれ)な勢いで駆け上がる」意味を込めて贈られたもの。188㎝、175㎏の体格を活かし、貴乃花に次ぐ年少記録で新入幕まで進んだが、そこから昇進スピードは大幅にダウンした。土俵際での逆転負けが目立ち、先輩力士から「精神的な弱さを克服しなければ」と苦言されたこともある。

だが、ここで重大な事実を示しておかなければならない。
稀勢の里は五度、綱とりに失敗を重ねた末、横綱の地位を獲得した。これはとりもなおさず、彼が全力で取組を続けてきた結果でもある。
6年前、週刊誌の告発記事をきっかけに社会問題化した「八百長疑惑」。結局、モンダイの抜本的解決には至らず、前代未聞の春場所中止で決着した。しかし、現実にはまだ“注射”(金銭の絡む星の貸し借り)は行われている。角界を知る関係者から直接聞いた話だ。
※〔補足すると、弱いから八百長をするわけではない。実力随一の某横綱も油断や偶然で星を失うことはある。怪我も含め、それらを避けるための方便という本音が、当事者の心うちにあるのではないか〕
その中で、貴乃花部屋などとともに数少ない“ガチンコ”力士として、稀勢の里は土俵に上がり続けてきた。入幕以来休場はわずか1日。昨年は年間最多勝を得ながら、優勝経験のないただ一人の大関だった。そして、横綱就位を前にしたインタビュー。「まっとうに生きて、相撲道に精進したい」。ウソ偽りない人間の言葉だった。

精神疾患に虚偽性障害(作為症)という疾病がある。
自ら症状を作り出し、そのことで意識の水底に沈んだ心の叫びを訴える。ただし、何か具体的な利益を得ようとする「詐病」〔例;うつを装い、嫌な仕事から逃れるなど〕とは異なる。本人は、症状にある意味依存している。治療するにはまずその水底をしっかりと理解し、共感する必要がある。
かつて、原因不明の高熱を繰り返す女性がいた。何回検査しても、炎症所見のCRPは陰性で、症状は熱だけ。看護師立会いで測定したら熱は治まったが、その後1日50回以上の下痢が続いた。彼女は生後数ヶ月で捨てられ、実親を知らずに育った。養親への葛藤が渦巻いていると知ったのは、診察し始めてずいぶん経ってからだった。

芥川龍之介の小説『藪の中』は、今昔物語集に題材を採った心理劇。京都のやぶの中で若夫婦が山賊に襲われ、夫が縛られる前で妻は姦淫される。その後、妻は消え去り、夫の死骸が見つかる。発見者らの陳述のあと、捕まった賊、清水寺に懺悔しに現れた妻、巫女の口を借りて語る夫の霊が三者三様の証言をする。〔真相がわからず迷宮入りする様子を「やぶの中」というのは、この小説から来ている〕
宗教人類学者の植島啓司氏はwebコラムで『藪の中』を論じ、最後にこう述べている。
「嘘は、単に自己正当化のためのものではなく、もっと大きな社会的役割を持っているということである。人間同士のあいだにひそむひび割れ(ギャップ)をなんとか見えないようにするための無意識的な振舞いなのかもしれない、、、」

鷽替え神事の鳥・ウソの語源は、嘘つきではない。この鳥の鳴き声が口笛のように聞こえることから、その古語「うそ」から来ている。
稀勢の里はその名の通り、今の角界では稀(まれ)なこころを持った関取だと思う。横綱となっても、マコトの口笛を吹いてほしい。