作家の嵐山光三郎氏が雑誌「文藝春秋」で興味深いコラムを綴っていた。題は『人生十五番勝負』。一生を大相撲にたとえ、5年毎に区切り、それぞれ自己評価で勝ち負けをつけるのだ。今年75歳で後期高齢者入りした嵐山センセイは勝ち越し目前とのこと。さて、この男の人生総決算はどうだったのか?――きょう没後30年を迎えた劇画原作者・梶原一騎。

当院に通う30代後半の男性会社員Aさん。うつ病までいかないが、慢性の憂鬱でときおり仕事に行けなくなる。彼のストレス解消法がボクシングだ。時も時、Aさんに梶原一騎のことを訊いてみた。
「だれですか?あぁ、あしたのジョーなら知ってますよ。ちばてつやの。えっ、原作者がいたんですか。知りませんでした。巨人の星(の原作者)と同じ人なんですね」

戦後漫画史上最高の評価を得た名作『あしたのジョー』(画ちばてつや、原作高森朝雄)。ファンにとっては当たり前だが、高森朝雄とは梶原一騎の別ペンネーム。昭和40年代当時、週刊少年マガジンで『巨人の星』(画川崎のぼる、原作梶原一騎)と同時連載となったため、同じ梶原一騎名ではまずかろうと、梶原の本名・高森朝樹を一字変えて発表された。以後、高森朝樹を偲ぶ文章を綴ろう。〔出典は『夕やけを見ていた男 評伝梶原一騎』(斎藤貴男、新潮社)〕

スポ根作家として高度成長時代の寵児となった梶原一騎の由来は、平安時代末期、宇治川の戦いで騎馬に乗り、先陣争いをした梶原源太景季(かげすえ)だといわれる。その話は小学生のとき、源平合戦の子供向け小説を読んだので、義経のひよどり越の逸話とともによく覚えている。挿絵が秀逸だったからだ。しかし、ペンネームの本当の理由は違った(後述)。

高森家のルーツは熊本の阿蘇。朝樹の祖父貞太郎は幼少時、放浪癖のあった父と別れ、母も17歳で他に嫁いだ。独力で大学を卒業し、英語教師となった。父龍雄は筋の通った元教師、雑誌編集者で俳句や絵画もたしなむ文化人。酒豪だが決して乱れなかった。母や江は大柄で、激しい気性。彼女の兄の自殺がきっかけで兄と親交のあった龍雄と結ばれる。昭和11年秋、東京の下町で長男に生まれたのが朝樹だった。弟に真土、比佐志がいる。
4歳下の真土(作家真樹日佐夫)が振り返る。「うちは、お父ちゃんの方の血が知性なら、おふくろの方は乱暴者で、情念の血」。
その血をどう継いだのか、朝樹は幼少時からケンカっ早いので有名だった。青山学院の前身となる私立小に入学したものの、1年もたたずに上級生に大怪我をさせ、公立小に転校せざるをえなくなった。
そのころ、太平洋戦争の時局は進み、高森三兄弟は母と宮崎に疎開した。朝樹は近くにあった軍基地の特攻隊員と仲良くなり、避けられぬ死について思いを巡らせた。
戦後、川崎に戻った朝樹はボクシングにハマり、元東洋フェザー級王者ピストン堀口のファンとなる。相手に好きなだけ打たせてから蒸気機関車のピストンのように連打する堀口は、その戦型の果てにパンチドランカーとなった。国鉄の線路上を歩いているうち、向かってくる列車を避けきれなかった。
梶原一騎の作品は名作も駄作も、決してハッピーエンドでは終わらない。その原点は、ピストン堀口の死にあった。
その後、朝樹の乱暴ぶりはエスカレート。再度同級生に怪我をさせ、学校にいられなくなる。昭和25年春、13歳7か月の朝樹は東京・青梅の誠明学園に入学した。そこは児童福祉法で規定された教護院〔今の児童自立支援施設〕。少年院ではないが、不良行為のある児童を入所させ、生活学習指導を通して心身の健全育成を図る場所だ。
同学園で過ごした3年間が朝樹の人生観に重大な影響を及ぼした。入所者の大半が親の揃わない“みなしご”だった。食糧事情の悪かったころで、体格に勝る朝樹は施設のボスとして振る舞うようになる。『あしたのジョー』で有名な矢吹丈の少年院での描写は、この時の経験を色濃く反映したものだ。
そして、先述のペンネーム由来。それは、施設生活で一緒だった女性に惚れたためだ。彼女の姓が「梶原」だった。

梶原一騎は本当は劇画原作者でなく、小説家になりたかった。その劣等感が、教護院入所で親に捨てられたと邪推した負け犬根性が逆に、のちの梶原イズム=敗者の美学を生み出したとは言えまいか。
タイガーマスクのエンディングテーマ「みなし児のブルース」(作詞木谷梨男、作曲菊池俊輔)が今も耳に残る。
♫ あたたかい人の情けも 胸を打つ熱い涙も 知らないで そだったぼくは みなしごさ
強ければそれでいいんだ 力さえあればいいんだ ひねくれて星をにらんだ ぼくなのさ〜♫
あれほど哀調を帯びた歌が子供向けTV番組で流れた昭和という時代に、ある種の感動を覚える。

梶原一騎こと高森朝樹。昭和62年1月21日、壊死性劇症膵臓炎のため死去。享年50歳。人生十五番勝負のうち、残り五番を残して散っていった。はて、何勝何敗だったのか、、、