平成29年が明けた。酉年だけにケッコーな年にしたいとシャレている御仁もおられることだろう。4日から当院も外来を開き、“満員御礼”の三日間。そして本日は早くも7日。七草粥を食して、おせち料理とお屠蘇で疲れた胃を休め、一年の健康を祈る人日(じんじつ)の節句だ。

この日、薺(ナズナ)を浸した茶碗水に爪を漬けて切ると、その年を健康で過ごせるという伝統の風習がわが国にはある。「七草爪」(七日爪、菜爪) とは風流な命名だが、「爪」と聞いて思い浮かべるのは、やはり、あの女性のことだ。

向田邦子(1929ー1981) 。放送作家、エッセイスト、そして直木賞作家。テレビドラマ脚本で戦後の昭和を体現した人、と言っても良い。向田さんの代表作品のひとつ、『寺内貫太郎一家』にこんな場面がある。
東京・谷中の石材店を継ぐ主人公貫太郎の妻、里子役を演じる加藤治子が縁側を歩いていて「あ、痛っ」とつぶやく。かかとに誰かが切った爪片が刺さったのだ。「これはお父さんの爪ね。こんなに固いのは男の爪だわ」。
当初、この脚本にクレームがついた。高視聴率を誇った同番組の本筋とは関係ないエピソードだったからだ。しかし、向田さんは頑として修正を受入れなかった。些細な日常にこそ、真実が隠れていると信じていたからと、名コンビを組んだ演出家、久世光彦氏が述懐している。
別のエッセイで向田さんは、太平洋戦争当時の出来事を描いている。女学生時代、空襲警報がいつ来るかもしれない日々。校舎の渡り廊下にひかれたスノコに校長先生が 蹴つまずいて転び、周囲が爆笑のウズで囲まれたエピソード。等身大の視点から、正鵠を射た観察眼を向けた邦子。「戦時中にも笑いがあった。人々の生活があった」

日常のささやかな出来事。心の悩みだってすべてそこから湧き出てくる。今日も何十人の患者さんの口からついて出た「ぐち」を聴きながら、頭の片隅に、あのかかとに刺さった爪のことを思い浮かべていた。