米国雑誌「TIME」の今年の顔はトランプ次期大統領だが、国内で選ぶならこの人、日本プロスポーツ大賞に輝いた大谷翔平選手だろう。投手と野手の“二刀流”で実績を残し、ファイターズ日本一に貢献した。長身から繰り出す最速165㎞のストレートは見ていて小気味よい。
ただし、その賞賛の仕方が「プロ野球史上でも類を見ない」(Wikipedia)とまで書かれると、若干違和感が残る。確かに弱冠22歳の秘めた素質は無限大といえるが、まだタイトルを取ったわけではなく、野球好きの端くれとしては、この方をお忘れじゃないですかと言いたい。

景浦將(かげうら・まさる1915-1945)。愛媛県松山市出身。身長173㎝、右投げ右打ち。立教大を中退して創設間もない大阪タイガース〔今の阪神〕に入団。投手かつ初代4番打者として巨人軍の沢村栄治と名勝負を繰り広げた。
1936(昭和11)年秋季〔当時は2シーズン制〕、最優秀防御率0.79、勝率10割。翌年も年間15勝を挙げながら、秋季打率3割3分3厘で首位打者となっている。両タイトル獲得はプロ野球史上景浦ただ一人。水島新司の野球漫画『あぶさん』の主人公景浦安武のモデルとなったミスタータイガースである。
残念なことに、ライバル沢村と同様、景浦も戦争に取られた。首位打者獲得3年後に一度目の応召。3年で戻るが、手榴弾の投げ過ぎで肩を壊し、投手として復帰を果たせず、その翌年に二度目の応召。昭和20年5月、フィリピン・ルソン島で食糧調達に出たまま戻らなかった。戦後実家に届いた骨つぼには、石ころ三つだけが入っていた。戦争もし無くば、史上最高の“二刀流”は70年前に実現していたやも知れぬ。

忘れられた存在、と言えば医療における「心療内科」も同じと僕は考えている。世間では心の調子が悪いと心療内科でしょ、忘れられたってどういう事?といぶかしがるもしれないが、医療業界では認識に大きな隔たりがある。
内科医からは、取りあえず相談しやすい精神科と見られ、精神科医からは中途半端に心の専門に首突っ込んだ内科と受け止められている(と思う)。いわば、コウモリのような存在。調査したわけではないが、「心療内科なんかいらない」という医師を知っているし、一宮むすび診療内科、との誤記が医療関係者からの連絡でちょくちょくある事が、その仮説を裏付けているように思われる(被害妄想であって欲しいと祈るばかりだ)。

こころとからだの関係――いわゆる心脳問題はギリシャ時代からの難問である。論理的・演繹的思考を突き詰めたデカルトは同時に神を信じていた。その“ねじれ”の帰着点を大脳松果体に求め、破綻した。とはいっても、それを本質的に凌駕する議論が展開されたことは、遺伝子の解明された今にいたるまで、無い。
現代科学の観点からデカルトを批判するのが無益なように、専門化・細分化された現代医療の立場から心療内科の難を問うても、意義は薄いと思える。

野球とて、戦前戦後と今の時代では理論も技術も異なる。景浦將が現代によみがえったとして、投手と野手の両立ができるのかはわからない。わからないが、気に入らないことがあるとボール球をわざと空振りするような性格の景浦にとって、今の野球はデータばかりに頼って無味乾燥なものに映るに違いない。

二刀流の“元祖”宮本武蔵も、実像は横着で世間のはみ出し者だったようだ。ひとと違う者が、ひとと同じ道を目指す――このモンダイを考えているうちに、心療内科医の人格そのものが問われているような気になってきた。ただそれは、すべての医師にとっても、いな、すべての人に通じる深遠な“問い”ではなかったか。

実は、当院長の名前・将則の「将」の由来は、景浦將から採ったものである。名づけた本人(僕の父親)は、昭和8年生まれでずっと野球一筋。生前、酒が入ると口をついて出たのが以下のエピソードだった。高校の時、のちの四百勝投手・金田正一率いる享栄高に勝ち、国体出場を果たした。「ヒットを打ったよ」。
そう語る、亡き父の脳裏に景浦將のフルスイングが浮かんでいたかどうか、知らない。
僕はいま、あらためて決意する。「心身二刀流で行く」。