平成28年最後の土曜外来を終えた夜、一宮むすび心療内科スタッフで恒例の忘年会を催した。場所は隣ビルのレストラン「三栗(みくり)」。3回目の今年は偶然クリスマスイブと重なり、食事はトリュフ入りマデラソースのフィレステーキなど豪華なXmasバージョン。他のお客さんも巻き込んでジャンケンゲームをしたりと盛り上がった。

“クリぼっち”という言い方があるそうだ。少し前、若手スタッフから知ってますか?ときかれた時、「ダイダラぼっちなら知ってるけどね」と答えたが、クリスマスを独りぼっちで過ごす事と言われ、縮め過ぎだろ!と吠えたのもつかの間、あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします、が  “あけおめ。ことよろ”  で済んでしまう時代になったんだと改めて思い直した次第。

博報堂などが10〜40代のLINE利用者5415人に行ったアンケート結果によると、20代の男性33%、女性26%がクリぼっちという。彼らの実際の予定は、男性23%、女性32%が仕事・アルバイトとのこと。生まれてこのかた、高度経済成長もバブル経済も体験せずに生きてきた彼らにとって、クリスマスにひとりせっせと働くことは、特段違和感を持たないのかもしれない。

一億総中流現象が消失した現代日本。それは大衆の昭和から分衆の平成へと言い換えてもいい。
1985(昭和60)年、博報堂生活総研が提唱した新語が「分衆」だった。電化製品などが1世帯当たり1台以上の割合に達した状態。乗用車もエアコンもテレビも一家に1台をとっくに超えている。IT化社会の促進、特にスマホなど情報通信手段の進化普及によって、個人、家族の境界概念は昭和時代のそれとは大きく変わりつつあるように思える。

85年前、スペインの哲学者オルテガは著書『大衆の反逆』の中で、第一次世界大戦後のヨーロッパで台頭する者たちのことを「大衆」と呼び、共同体をおびやかす存在として嫌悪した。彼は、大衆は他と同一であることに喜びを見出すが、自己完成の努力をせず、自己の安楽追求をするために他人と連帯しない人々と定義づけた。「遺産相続以外何もしない相続人」と辛らつだ。大衆の出現と退場、分衆の誕生ーー

イブ明けの日曜日、娘の高校時代の部活仲間3人が拙宅に来てくれ、クリスマス会を楽しんだ。
女子ハンド部で3年間苦楽を共にした仲間。ソーセージ入りたこ焼きとツリー型ケーキ作りに没頭。腹ごしらえの後は、日本ハンドボール選手権男子決勝をテレビ観戦しながら、4人で人生ゲームを始めた。
「一回、貧民に落ちると戻れないよねえ」「火災保険入れるよ。家買っときゃあ」「借金してるのに結婚していいんですか?」「毎晩の残業キツすぎる」などとワイワイはしゃいでいた。

ちょうど1年前のきょう、電通の新人社員、高橋まつりさんが過労自殺した。
きっと彼女の心と体はその何日も前に擦り切れてボロボロになっていたのだろう。キリスト生誕の日まで命を繋いだが、そこまでが限界だったのだろう。まつりさんの脳裏には、クリぼっちが思い浮かぶいとまも無かったに違いない。