11月23日〔勤労感謝の日〕は、かつての新嘗祭。その年に収穫された穀物を神に捧げて感謝する日だ。瑞穂の国日本にとって、ある意味いちばん大切な祝日といえる 。この日が、冬将軍に備えるための記念日「手袋の日」でもあることに深い意味を感じとって、一昨年から当欄で取り上げてきた。3回目の今年は両者をつなぐ話題。

新嘗祭を「にいなめさい」と読めるのはどの年代からだろう?
飛鳥時代・皇極天皇の頃から始まったとされる重要な宮中祭祀で、今でも毎年、伊勢神宮に勅使が遣わされる。天皇のお田植え、稲の刈り取りは年中行事としてニュースに取り上げられる。
日本人にとって食の中心となる米。しかし、年々、その消費量は減少の一途をたどっている。農林水産省の発表ではピークが昭和37年〔国民一人当たり年間118.3kg〕。それが平成17年には61.4kgと半減してしまった。総摂取カロリーは減っていない。米飯の代わりに増えたのは副食の畜産物など、熱量でいえば油脂類の伸びが著しい。“カウチポテト族”が話題になったのはかなり前のことだ。

幼稚園の頃、給食の時間にみんなで手を合わせて、こう唱えた。
「おとうさん、おかあさん、おこめをつくっていただいたおひゃくしょうさん、いただきます!」
昭和40年代前半のことだ。その後のボーイスカウト生活でも、飯盒(はんごう)炊飯で炊いた米を残すと殴られんばかりに怒られた。平成になって残飯「もったいない」運動が起こってはいるが、昔はそれが当たり前だった。好きなおやつに、余り飯を油で揚げた母親の手作りポン菓子があった。

作家の向田邦子(1929-1981)は、美味しいもの好きな人だった。自宅の整理箱に「う」と書いた引き出しがあって、旅先で見つけたお勧め料理のメモが入っていた。しかし、それは決してグルメとは違う。
夕餉(ゆうげ)の残り物カレーを翌朝食べることに喜びを見出す“庶民”であり、ワインを「ぶどう酒」、お握りを「おむすび」と表す“昭和の人”だった。東京・赤坂で妹和子さんと開いた和食の店「ままや」の献立を見ると、故人が偲ばれる。〔その店も、もうない〕
向田さんの名エッセイのひとつに「ごはん」(『父の詫び状』所収)がある。
心に残る「ごはん」体験として、彼女は東京大空襲の翌日の昼食を書いている。
昭和20年3月10日深夜、アメリカ爆撃機B29の空襲に遭い、目黒の向田家周辺も火の海と化した。家の畳に土足で上がり、火の粉を消した。死を覚悟した。奇跡的に風向きが変わり、焼け残った自宅で翌日、一家5人は最後の昼食のつもりで“ごちそう”を食べる。
「母は取っておきの白米を釜いっぱい炊き上げた。私は埋めてあったさつまいもを掘り出し、これも取っておきのうどん粉と胡麻油で、精進揚をこしらえた。」
「戦争。家族。ふたつの言葉を結びつけると、私にはこの日の、みじめで滑稽な最後の昼餐が、さつまいもの天ぷらがうかんでくるのである。」

後年、就職してしばらく経った頃、向田さんはひと冬を手袋なしで過ごした。気にいるものがなかったからだが、それは彼女の生き方に関する決意、我が道を行く的な人生を決める上司とのエピソードがきっかけだった。エッセイ「手袋をさがして」をテーマに書いたブログも読んでいただきたい。
手袋は冷えた体を温める。ごはんは言うに及ばない。
衣食足りて礼節を知る。向田邦子の作品に接すると、衣食とともにひとを温める大切な心、に改めて気づかされる。
旧新嘗祭の翌日、11月24日が世界無形文化遺産となった「和食の日」というのも、語呂合わせだけでない縁を感じる。今夜はメタボなど気にせず、たっぷりとごはんをいただこう。