今年は10月10日がたまたま第二月曜日に当たるため、きょうが「体育の日」となった。52年前のこの日が東京オリンピック開会式だったことを直(じか)に知る人が少なくなった平成28年、改めて“東京五輪”を考える。

東京でのオリンピック開催が決定したのは2回目ではない。太平洋戦争開戦の前年、つまり1940(昭和15)年にもアジア初の五輪が東京で行われるはずだったことを知る者は、体育の日の“起源”を覚えている人より少ないだろう。その確認のために少し歴史をたどってみよう。〔『幻の東京オリンピック』橋本一夫 講談社学術文庫など参照〕
古代ギリシャ・オリンピア祭典の再現をと、クーベルタン男爵が提唱した近代オリンピック大会が開催されたのが1896年。以後4年ごとに、アマチュアリズムを基本としたスポーツと平和の祭典は催されてきた。参加国数は第1回アテネの13から着実に増え、第31回リオデジャネイロでは206の国・地域にまで広がった。

オリンピックが他の国際スポーツ大会と決定的に違うのは、その政治性においてだ。1936(昭和11)年、第11回夏季五輪はベルリンで開かれた。開催地決定後、総選挙に勝利したヒトラーは当初「オリンピックはユダヤ主義に汚れた芝居」として拒否的だった。それが宣伝相ゲッペルスらの進言によって、態度を豹変させる。アーリア民族の優位性を世界中に誇示するため、いっとき有色人種差別政策をたな上げにした。〔ドイツは第6回大会(1916年)にもベルリン開催予定だったが、第一次世界大戦で中止した過去がある〕。
ヒトラーは、女優で映画監督のレ二・リーフェンシュタールに記録映画を製作させる。二部作『民族の祭典』『美の祭典』はその芸術性が評価され、ヴェネチア国際音楽祭で金獅子賞を獲った。いまや五輪開会式の定番となっている聖火リレーは、そのベルリン大会から始まった。国威発揚に絶好の儀式とナチスに利用された。

いっぽう、日本――関東大震災(1923年)後の帝都復興を目指した東京市長永田秀次郎は、建国紀元二千六百年にあたる1940年に第12回オリンピックを招くと決意。いくつもの難題を切り抜け、日本はアジア初の五輪開催国を勝ち取った(1936年)。
しかし、その5年前に満州事変が勃発、3年前には満州国を否認され国際連盟を脱退し、軍国主義の道を歩んだ日本は、1937年の日中戦争によって競技場建設の鉄材確保も困難となり、オリンピックを「たかがスポーツの大会」と軽視する軍部の反対もあって、五輪開催を返上せざるを得なくなる(1938年)。代替開催地がヘルシンキに決まったものの、翌年ドイツはポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が勃発。平和の祭典は第12、13回と連続中止された。
組織委事務総長の永井松三は五輪返上後、聖火リレー協力を快諾したアフガニスタン大使に令状を出した。
「オリンピックの火を点ずることも、、今は水泡に帰し傷心、、東亜に平和の暁雲が漂ふ折は再び、、東京に招致する希望、、、」。
その言葉通り、戦後IOC委員となった永井は、第18回夏季オリンピック東京開催に尽力した。

1964(昭和39)年8月21日、聖地オリンピアのヘラ神殿で太陽光を集めて採火された聖なる火は、11か国の中継地約1万5500㎞を空輸され、9月7日沖縄に到着した。当時まだアメリカの占領下にあった沖縄で聖火は4コースに分かれ、4374区間を10万713名がリレーして走った。
最終走者は広島原爆投下日に生まれた坂井義則さん(19歳)。10月10日 午後3時、日の丸を胸に描いた真白いランニングに短パン姿で国立競技場スタンドの階段を駆け上がり、あかあかと聖火台に点火したシーン。あの赤と白、そして空の青さ。いつまでも目に焼け付いて離れない。
そう、聖火リレー10万人走者の一人が、わが恩師、体育のキンメイこと長谷川金明先生だった。