半袖ではさぶぼろ(鳥肌)の立つ雨に降られたこどもの日、用事で関西に出掛けました。新幹線から在来線に乗り換えて目にした光景。
――思いのほか車両は空いており、誰も目の前にいない通路をはさんだ対面の座席に母と子3人が座っている。三十がらみの年に見える彼女は、生後数か月の赤ちゃんをおんぶひもで胸元に抱き、両脇にはおそらく就学前と小学2、3年の男の子を従えている。いが栗頭の二男が右側から、クラゲのようにぐにゃりと体を母にあずけると、それに対抗するかのように左から、長男が母親の左手を取り、ぴしゃぴしゃと叩く。なにやら彼女に話しかけているが、聞き取れない。しかし、明らかに母は柔和な、もっといえば慈愛に満ちた表情で子どもたちに接しているのが手に取るように伝わってくる。――やや細目がちな、女優でいえば田中裕子似のその体から後光が差した、と書くと小説(フィクション)になってしまいますが、そう言って差し支えない空気が、がらがらのJR車内を満たしていました。その雰囲気のもとを辿[たど]るとひとつは、彼女が3人の子をつれていたことに行き着きます。「女手ひとつでけなげな、、」といういい方が観察する側に浮かんだのは間違いありません。それはある種の母性神話かもしれませんが、、、。

こどもの数が戦後最低を更新つづけ、まちは年寄りだらけ、という時代に突入しているわが祖国ニッポン。合計特殊出生率(ひとりの女性が一生涯に産むこどもの数)が人口維持に必要な数字を上回ることは期待できず、2人こどもがいれば多い方なわけで、経済の低迷にその原因を求めるのが主流ですが、それは真実とは異なります。一番相関しているのが高学歴化であり、次に娯楽の多様化であって、そのおおもとは未来への期待の乏しさです。”貧乏”が少子化の真の原因なら、貧しい途上国の人口爆発は日本とは全く異なると証明する必要がありますが、「貧乏人の子だくさん」な時期を経験している日本には無理な注文です。

さて10数分の邂逅[かいこう]ののち、母子はこちらと同じ駅で降車しました。そのとき愕[がく]然とした結末に出会います。朝の連続テレビ小説ならここで終わるところですが、実はこの子らには父親(母から見て夫)がいたのです。母の向かって右にいた二男から30センチ離れて座っていた男性が、その人でした。もちろん、こちらの視界には入っていました。けれど彼は道中、ただの一度も家族と会話を交わすことなく、かといって寝入るわけでもなく、ただ無表情に窓外の景色を眺めるのみでした。今思い返してみても、彼をあの母子の家族と感じ取る状況はなかったといえます。では、いったいなぜ?その答えは、5月のつめたい雨にかき消されてしまったようです。
ぶるっ!悪寒がしてきた。風邪、ひいたかな?温かいミルクをのんで寝よう。