金沢で開かれた医療講演会に参加した。成人ADHDの講義が勉強になったのはもちろん、初めての訪金のせいかワクワクして兼六園など見物した。一泊二日の滞在でいちばん心に残ったのは、市内を穏やかに流れる犀川の光景だった。「 ふるさとは遠きにありて思ふもの 」。有名なフレーズが自然と口をついて出た。故郷についてつれづれ思ったことを書き連ねよう。

文豪室生犀星[1889-1962]は生地金沢に対し、つねに葛藤を抱えて生きた。実質的処女詩集の最初に、例の詩が載っている。

ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの 
よしや
うらぶれて異土の乞食(かたゐ)となるとても
帰るところにあるまじや
ひとり都のゆふぐれに
ふるさとおもひ涙ぐむ
そのこころもて
遠きみやこにかへらばや
遠きみやこにかへらばや  <抒情小曲集一部(故郷にて) 小景異情その二>

旧加賀藩城下の剣術道場主、小畠弥左衛門吉種63歳の時の不倫の子が犀星だった。生母は女中か誰かいまもって不詳。犀川べりの住職、室生真乗の内縁の妻、赤井ハツにもらわれ、私生児赤井照道として届出、7歳で真乗の養嗣子となって、室生姓を名乗る。3人の血の繋がらぬ兄姉妹があった。家は檀家を持たない賽銭だけの小さな祈願寺だった。
照道は高圧的な酒のみの養母から絶えず叱られて育ったという。家事都合で高等小学校を中退、13歳のとき金沢地裁の給仕になり、上司の俳人から俳句を習い始めた。その腕前は17,8歳の頃には地元新聞で常連となるほどだったが、19歳の時、金沢から二里離れた町の登記所に左遷。その真相は、養母や家族から離れたかった照道が希望したためとされる。
わずか8㎞という間合いが照道の心情を反映している。そして筆名を犀星としたことが彼の故郷への思いを吐露している。
その後、上京して北原白秋や萩原朔太郎との交流を深め、詩人作家としての道を犀星は歩んでいくが、地元に錦は飾らず、東京の自室には犀川の写真が貼られていた。

このエピソードを知り、僕自身の記者時代、東京・世田谷でのアパート住まいの頃を思い出した。
冬のある日、すきま風が古アパートの扉から舞い込んだとき、地元一宮の「伊吹おろし」を連想したのだった。
――自転車通学だった中学生時代。冬の下校時、こいでもこいでも前に進まぬと思えるほど強く北風が吹く。伊吹山から関ヶ原を抜けてくる寒風が伊吹おろしだ。2㎞離れた家に着くと、両耳が誇張でなく真っ赤に腫れ上がっていた――
伊吹おろしを連想したとき、ちょうど読み返していた小説が魯迅の短編『故郷』だった。
作者自身が主人公のモデルで、20年ぶりに故郷に帰る場面から始まる。かつての地主が没落し、生家の家財を引き払うための旅行。少年時代に遊んだ小作人の息子、閏土(ルントー)との再会を待ちわびるが、大人になった閏土はもうかつての丸顔の少年ではない。
「ああ、閏(ルン)ちゃんーーよく来たね」とねぎらう私に対し、黄ばみ、深い皺のたたまれた顔が、薄手の綿入れ一枚のいでたちで「旦那さま、、、」と応える場面の切なさ。
中学3年の教科書で繰り返し読んだ。文章を読んで涙が出たのは『故郷』が初めてだった。

以前、当コラムで紹介(アーカイブ2016.4.17「僕は17年監禁された~戸籍のない人生~」)した室田居留男さん(23歳)のことを覚えておられるか。生まれた土地も親きょうだいも知らず、見知らぬ「おじ」に17年も部屋に閉じ込められて育った青年。先日の診察でこんな話をしてくれた。
「自分のルーツはやはり知りたい。戸籍も欲しいが、日本人と証明するものが無いと裁判で言われた。僕の話自体、埼玉の女子中学生監禁事件でようやく本当かもしれないと言ってくれたけど、、、」。室田さんは運転免許証をまず取りたいが、住民票がそもそも発行されないのだという。証明責任は誰にあるのか?犯罪の被害者である室田さんに、国は責任を負わせている。
室田さんには「故郷」がない。しかし、いま一宮で住み続けている事実を行政は理解し、最低限住民票を発行すべきだ。そんなことすらできない国なのか、日本は。

たとえ生育環境が嫌悪に満ちていたとしても、室生犀星にとっての故郷は、やはり犀川の流れる地、金沢だったと言うしかないだろう。
魯迅は『故郷』の最後でこう書く。「もともと地上には道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ」。故郷に繋がる道は、誰にも等しく開かれていると信じたい。