認知症の91歳男性が徘徊で列車にはねられ、死亡した末、家族がJRから損害費用請求された訴訟の控訴審判決が出た。名古屋高裁は介護認定を受けている85歳の妻に監督責任を認め、360万円の支払いを命じた――
やるせない、という表現しか思い浮かばなかった。今回の事案でポイントはいくつかある。キーワードの一つが「責任」だが、認知症という(程度にもよるが)自分で自分の責任を負えない病気の人の責任はどうあるべきか(もし男性が生存していたら、損害請求は本人にいくのか?)。家族がその責任を負うとしたら、それは成熟した法治国家として当然の姿なのか?徘徊老人の保険料は今後どう計算されるのか?――
しかし、ここでは次の点を挙げて考えたい。キーワードは「監視社会における人と人の結びつき」。今回の訴訟で一審判決は「自宅出入り口のセンサーを作動させなかった落ち度」を家族に求めている。徘徊自体は病気の症状だから仕方ないとしても、それによる社会的損失を防ぐ手立てがあり、それを実行しなかった点に過失があると断じているのだ。なんだか、うそ寒く感じるのは、むすび心療内科院長だけだろうか?徘徊老人をGoogleマップ上の記号に転化することで、行方不明の危険から救出できることも承知の上で、院長は訴える。「好きにさせい!!」。控訴審にしても、JRにも安全向上に努める責務があるとした点で、一審より評価すべきなどというレベルの問題ではない。
スフィンクス曰く、人には3種類ある。4本足のひと、2本足のひと、3本足のひと。近代社会では人と呼ばれるのは2本足だけであり、より自然に近い4、3本足は排除される定めにある。ジョージ・オーウェルの「1984年」から人類は30年も生き延びてきたが、そろそろ限界なのかもしれないと、今回の出来事に沈む院長であった。