暖かな桃の節句となった。申(サル)年の3月3日と掛けて、日光東照宮の三猿と解くーーこころは、「見ざる言わざる聞かざる」で、耳の日には”聞か猿”がお似合いです。ーー

小泉八雲の短編集『怪談』の代表作「耳なし芳一」。中3の夏休み、英語の宿題で読まされた記憶がある。
盲目の琵琶法師・芳一が、壇ノ浦に消えた平家武士の怨霊にたぶらかされ、安徳天皇の墓前で琵琶の弾き語りをさせられる。案じた和尚は小僧に命じ、芳一の体中に般若心経を書き込ませる。経文があると相手に見えないのだが、耳だけ書き忘れたため、怨霊にさとられて耳介をちぎられてしまう話。
この 怪談、題名から勘違いしそうではあるが、芳一は耳が聴こえないのではなく、目が見えないのだ。それはさて置き、見ることと聴く事は、動物にとって外界の情報把握の中核となる感覚だ。そこがやられれば、生き延びる術を失いかねない。
一昨年、現代のベートーヴェンと話題を呼んだ佐村河内守氏は、そこを逆手に取った。全聾者のフリをして「心の中から湧き上がった」旋律を交響曲に仕立て上げる異能の人に成りすました。黒子(ゴーストライター)として作曲家の新垣隆氏を利用し、メディアの寵児となるや、新垣氏の良心によって野望はついえた。

人間を一個の機械と見立ててみよう。眼や耳など感覚器官から情報を入力し、脳というコンピューターで演算して出力する。具体的には筋肉を使った運動 が出力にあたる。運動には発声も含まれる。
当院に通う小江賀伝三さん(33歳)はある日突然、声が出なくなった。妻が自分に毒を盛るという妄想が出たあとの事だった。すったもんだの挙句に離婚 となり、子供もないので、ひと段落すれば症状は回復すると家族も思っていた。
ところが 、体調は戻り気分も安定して妄想のモの字も無くなったのに、なぜか声が出ないのだ。耳鼻科での精査は異常なし。薬物療法や丁寧に話を聴く精神療法は無効。ニューロフィードバックという脳波に直接アプローチする治療を始めると調子は上向いた(少なくとも本人はそう感じている)。
残るは声のみ。診察は筆談で行う。仕事を休んでいるので、このままだと本人には不利益な状態が続く。時折、器質的に異常のないのに目が見えなくなったり耳が聞こえなくなる人がいる(転換性障害と呼ぶ)。たいていの場合、疾病利得といってその方が本人に利益をもたらす(家族に心配してもらいたい、など)。
しかし、小江賀さんの場合はどう見ても当てはまらず、しかも声を除けば元気そのものなのだ。気掛かりがあるとすれば、両親との交流に乏しい点だろうか。確かに、ひとの話に耳を傾けない雰囲気はある。

日本人論一般にギロンを飛躍させるのは気がひけるものの、「長いものには巻かれろ」「出る杭は打たれる」などのことわざを 豊富に持つ日本語を駆使する脳味噌の構造、という問題は僕にとって関心の的とならざるを得ない。
小江賀さんの快癒には東照宮まで出掛け、三猿を拝みながら泉下の左甚五郎さんに お伺いを立てるしか無いのだろうか。