「人生七十古来稀なり」ーー太平洋戦争の体験者が稀(まれ)な時代になった。先ごろの世論調査で広島・長崎の原爆投下日を知らない日本人が7割に上ることを知り、愕然とした。このぶんなら、日本がアメリカなど連合国と戦争をして敗けた事実を知らぬ若者もいることだろう。きょう8月15日は70年目の「終戦の日」。

映画『日本のいちばん長い日』(原田眞人監督)を観た。
昭和16(1941)年12月8日の真珠湾攻撃で始まった太平洋戦争末期。昭和20年4月、鈴木貫太郎は総理大臣を拝命した。それから、8月15日の玉音放送までの4か月のあいだ、戦争終結に向けて心を砕く鈴木首相と、表面上は徹底抗戦を訴える阿南惟幾(あなみ これちか)陸軍大臣を中心とした人間模様が、昭和天皇をめぐる関係として描かれる。
慶応3(1867)年、明治維新前年に生まれた鈴木は海軍入隊後日露戦争に勝利。軍令部長になったのち、昭和4年から8年間侍従長を務め、二・二六事件で重傷を負うが一命を取り留めた。妻は天皇幼少時の養育係。鈴木はいわば昭和天皇の”父親”だ。孔子でなく、老子を好んで読んだ。
いっぽう明治20年(1887)生まれの阿南は陸軍に進んだのち、同じく昭和4年から4年間、侍従武官として昭和天皇に仕えた。天皇より14歳年長の阿南は鈴木の人格に感銘を受け、その心持ちは終生変わらなかったという。
満州事変、日中戦争から太平洋戦争に突入し、サイパン陥落から硫黄島玉砕、沖縄戦と敗色が決定的となっても、陸軍は本土決戦を唱え続けた。大本営からは日本軍に都合のよい情報しか国民に知らされなかった。そればかりか、天皇にすら戦闘被害を矮小化して上奏していたことが明らかになっている。
この戦況下、陸軍の暴走を統制して和平に持ち込むために鈴木が名指ししたのが阿南だったのだ。昭和天皇は親しみを込めて阿南のことを「あなん」と呼んだ。

この映画は昭和42年、文藝春秋編集者だった半藤一利氏が当事者からの取材をもとに書き起こした同名ノンフィクションを映画化した同名作(岡本喜八監督)が下敷きになっている。
題名の”いちばん長い日”とは、8月14日の御前会議で天皇が聖断をしてポツダム宣言受諾してから、翌15日正午、天皇の肉声録音による無条件降伏受け入れ放送までの24時間を指してつけられたものだ。この間に皇居(宮城=きゅうじょう)とNHKで起きた陸軍将校らによるクーデター未遂事件が、映画後半のハイライトだ。玉音放送の録音レコードを守った徳川義寛侍従は、昭和63年に侍従長を辞めるまでの半世紀、昭和天皇一筋に生きた。
岡本監督版では、この24時間の閣僚たちのやり取りが延々と続く。三船敏郎が苦み走った表情で阿南を演じるのをテレビ放映で観た小学校時代を思い出す。時代の制約だったのだろう、天皇は遠目か後ろ姿でしか映されず、セリフもなかった。
平成の原田監督版では半藤氏のノンフィクション決定版と別著書をもとに、あくまでも阿南、鈴木、そして昭和天皇の3人の関係に焦点を当てた点が異なる。それぞれを演じた役所広司、山崎努、そして本木雅弘が持ち味を存分に発揮していた。
映画パンフレットに作家の五木寛之氏が寄稿している。中学1年のとき、終戦の詔勅をピョンヤンで聴いた。(韓国は日本の植民地だった)。五木氏の父は20年夏に教育召集されたが、幸運にも終戦前に帰ってきた。
「あの詔勅のラジオ放送をめぐって、これほどのドラマがあったことをはじめて知ると同時に、知らなかったことの罪をあらためて自省させられた」。知らないことの罪――


お盆休みに実家に立ち寄り、戦死した父方祖父のことを調べた。(父が亡くなっているので、戸籍抄本の写し等を参照した)。
小出敬一は明治38(1905)年、つまり日露戦争勝利の年、一宮で次男として生まれた。地元繊維会社の大番頭として働く敬一に召集令状が届いたのが昭和20年。3人の子と妻(僕の祖母)を残して東南アジアに出征、あの悲惨なインパール作戦で有名なビルマ戦線に配置され、「シッタン作戦」に参加した。雨季のぬかるみとコレラの蔓延する中、終戦半月前の7月31日、「シッタン河渡河点東方五粁二於テ戦死」。享年満40歳。あと1か月戦争が早く終結していたら、、、。