7月9日は鷗外忌。夏目漱石と並び称される文豪森鷗外(1862-1922)の命日にあたる。昨年、太宰の桜桃忌について書いたので、今年は何を置いてもこの日を外すわけにはいかなかった。鷗外の娘、小堀杏奴さんと生前親交を得た者として、書き留めておきたい。(アーカイブ2014.6.19.「杏と桜桃」をぜひお読み下さい)

鷗外といえば、高校の国語教科書『舞姫』の文体を真似て、日記をつけていた頃を思い出す。鵜のまねをするカラスと成り果てたのは言うまでもないが、主人公太田豊太郎の恋人エリスの可憐さを思い浮かべながら、日記に当時思いを寄せていた女性のことを書きつけた。
島根の津和野藩から家の期待を背負い上京、東大医学部から陸軍軍医となって出世街道をひた走りながら、同時に日本近代文学の泰斗として完璧に二足の草鞋(わらじ)を履き切った文豪、というのが20代までの僕の鷗外観だった。
その考えは、桜桃忌の取材で知り合った杏奴さんとの交流後も変わらなかった。というか、太宰の事は聞けても鷗外のことは訊けなかった。歴史上の偉人のことを実の子に尋ねる遠慮が生じたのか、「鷗外の娘と知り合いである」と思うことのみで満足してしまうスノビズム(俗物根性)がそうさせたのか。
彼女の随筆『晩年の父』で知ったのは、父親のことを「パッパ」と呼び、父は娘を「アンヌコ」と呼ぶ子煩悩であり、厳格なイメージの鷗外に似つかわぬほほえましさだった。鷗外には先妻との間に1男、後妻との間に2男2女がある。二女の杏奴さんは鷗外47歳の時の子だった。かわいくないはずがない。

複雑な家庭事情で育ち、不機嫌亭ともよばれた漱石とは異なり、陽の当たる表道を歩んだ鷗外の人生。こうした先入観を一変させたのが、一冊の本だった。――『鷗外、屈辱に死す』(大谷晃一著、人文書院、1983)。
元朝日新聞学芸部の大谷氏は鷗外の遺書に目をつける。「、、、余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス、、、墓ハ森林太郎墓ノ外一字モホル可(ベカ)ラス、、、」の部分が一般に目を引くが、鷗外の本心はそこではない。[蛇足だが林太郎は本名]。
本丸は次の箇所にある。「、、、宮内省陸軍皆縁故アレドモ生死ノ別ルル瞬間アラユル外形的取扱ヒヲ辞ス、、、宮内省陸軍ノ栄典ハ絶対二取リヤメヲ請フ、、、」。「栄典」とは男爵のことと著者は断じる。
鷗外は文学者である前に高級官吏だった。周囲は皆爵位を持つ生活環境。鷗外と同等の陸軍人は皆、その栄誉に浴している。鷗外とて受爵願望を持つのに例外ではなかった。しかるに、彼の前には常に行くてを阻む小人物官吏がいる。I とK。二足の草鞋を履く鷗外への偏見、やっかみ、中傷。松本清張が小説題材とした小倉左遷をはじめ、鷗外の苦難の官吏人生の跡を、鷗外自ら亡くなる直前に回想する形式で叙述する考察。
元来、頑固な性質(たち)のある鷗外がその屈辱に耐え、医務局長の座につく経緯を、鷗外の小説をちりばめながら証明していく様子はさながら推理小説。読み進むうちに引き寄せられた。大谷氏はいう。鷗外の小説はむしろ、陸軍の生活での鬱憤を関係者のみにわかるように整えた作品が多いと。そして最期、爵位を絶対に受けぬと遺書で宣言することで、汚名返上に成功したーー。
「鷗外も人の子だったんだ」。そういう感想と同時に、その忍耐ぶりはやはり常人の及ぶところではないと感じ入った。

山椒大夫、高瀬舟、興津弥五右衛門の遺書、、。弟子の木下杢太郎が「テエべス百門の大都」と評したエジプト大都市のような鷗外の作品群。そのひとつに『寒山拾得』がある。寒山(かんざん)も拾得(じっとく)も中国・唐時代の小物官吏が尋ねた菩薩の化身だ。鷗外の嫌う I に心隠した返書を出した夜、書き上げた。そのあとがきで杏奴さんら子どもにこう言った。
「実はパパアも文殊なのだが、まだ誰も拝みに来ないのだよ」