18年前のきょう、神戸連続児童殺傷事件の犯人が逮捕された。現在32歳の元少年は先日、医療少年院時代と退所後の生活を手記にまとめ、出版したことが話題になっている。その著書『絶歌』(太田出版)を購入し、読んだ。

平成9年2月から5月にかけ、兵庫県須磨区で小学生が相次いで襲われ、4年女児と5年男児が殺害された。とくに男児の死体は首を切断され、通学先の小学校正門に置かれるという猟奇性の高い事件。被害者の口に挟まれた犯行声明文から「酒鬼薔薇聖斗」事件と呼ばれ、メディアで連日報道された。僕自身当時、精神科医となる直前の時期だっただけに、強い関心をもって報道を追った記憶がある。 
メディアで問題とされているのは①遺族への事前相談と了解なく出版し、感情を逆なでした②印税の扱い――で、こうした書籍出版の倫理性を問うており、兵庫県立図書館では手記の貸出複写を制限する方針だ。いっぽうで表現の自由との絡みでの議論もあるが、少年事件では異例の精神鑑定公開となった事件であり、こころ医者としては読まずにはいられなかった。

全294頁のハードカバーは黒地装丁に白色のカバージャケット。同一色の帯には「1997年6月28日。僕は、僕ではなくなった。」とある。本文は帯文と同じ文章で始まり、元少年(以下A)の生い立ちから事件審判までの第一部と、6年5ヶ月の医療少年院生活を終えた21歳から現在までを記した第二部からなる。
正直、第一部で猫を殺すくだりは、多くの人には読むに耐えないだろう表現が続く。精神鑑定で指摘された「直観像素質」(瞬間的に見た映像をいつまでも明瞭に記憶できる能力)をいかんなく発揮し、”事実”をこれでもかと書き連ねた結果がグロテスクな内容になってしまう。
重要なのはAが鑑定医師の前では努めて冷静を装い、決定的な事実を隠し通したこと、それを手記で明かしている点だろう。未分化な性衝動と攻撃性の結合で生じた持続的で強固なサディズムが本件の重要な要因とする鑑定。これに対し、最愛の祖母の死と愛犬「サスケ」の死、そして祖母愛用の遺品での性的経験こそが端緒だったことを生々しい筆致で吐露している。
事件当時、父母との関係が希薄だったと論じる識者もいたが、Aはそれを明確に否定している。手記を読む限り、Aの親子関係に決定的な欠陥は見られない。むしろ、自身こう述べている。「母親は僕を本当に愛して、大事にしてくれた。僕の起こした事件と母親には何の因果関係もない」。父に対しても「真面目だけが取り柄のつまらない人間だと思って」はいたが、その筆致に憎しみなど否定的感情は微塵も含まれていない。
結局、この事件はAの持って生まれた気質が起こした「超極私的」なものだったのか? 精神科医の香山リカ氏はAの脳機能障害の問題として捉える視点も必要と書いている。
第二部では医療少年院と出所後に関わった人々との出会いが語られる。その筆致は第一部とは違った趣きを与える。虚心坦懐に読むと、更生の意義があったのではという気もする。(それで被害者への償いができるわけでないことは本文で書かれている通りだ)。
手記終盤でAはこう書く。「現代はコミュニケーション至上主義社会だ、、、人と繋がることができない人間は”人間”とは見做されない。コミュニケーション能力を持たずに社会に出て行くことは、銃弾が飛び交う戦場に丸腰の素っ裸で放りだされるようなものだ」
A以外の誰かが書いた文章なら肯(うなず)ける内容だ。おそらく、事件後の更生の結果到達したAの偽らざる心情だろう。これをどう受け止めるか。言葉を治療の道具とする者としても、相応しい言葉が見つからないでいる。