父の日。昨年の当欄ではシャガール展にからめた話題を提供した。(アーカイブ2014.6.15 『しのぶれど色に出でにけりわがこころ』をご覧下さい)。そこで宿題にしておいた父親像の話をきょうはしてみよう。

最近、父の日の行事を中止する保育園・幼稚園が増えているという話題をテレビが報じていた。急増する母子家庭への配慮がその理由。シングルマザーが100万人を超える(2010年総務省統計)時代に突入したニッポン。父親参観で賛否両論の声をレポーターマイクが拾っていた。「お母さんが好き」という3歳児を抱えたお父さんが寂しそうな背中を見せていた。当院でも母子制度利用の患者さんは数多い。

そもそも母に比べて父は生物学的に存在意義が薄い。中学校の保健授業で卵子と精子が受精して、、、と習うし、社会科では両性の平等を教えられるが、動物の中にはメスだけで子を産み、育てる種もある。ヒト遺伝子の格納庫である染色体は常染色体と、性別決定のX,Y各染色体に分かれ、写真で見ると明らかにオスの決定因子となるY染色体の小さいことがわかる。研究ではX染色体の7%の遺伝子しか持たない。

文化的に見ても、キリスト教の救世主イエスは聖母マリアの処女懐胎で生まれた。これは単為生殖の人間版だろう。いうなれば、ヒトの雌は「女で”ある”こと」を求められるのに対し、雄は「男に”なる”こと」を求められるということではないか。
それを精神分析で表したのが「エディプス・コンプレックス」だ。フロイトがギリシャ神話から抽出した幼少期人格形成の抑圧理論。事情を知らずに父を殺害し母を妻にした王オイディプスになぞらえ、子どもが異性の親に抱く愛着と同性の親に抱く敵意をそう名付けた。
ゴリラ研究の泰斗、山極寿一京大総長に『父という余分なもの サルに探る文明の起源』(新書館・新潮文庫)という名著がある。山極教授は動物人類学者として、森林でゴリラと寝食をともにした経験などから、父親像についての考察を17年前にものしている。その冒頭で教授はフロイトのエディプス・コンプレックスを挙げ、こう述べるのだ。
「なぜ人類は、成長の早い時期にこのような親との性的葛藤を体験しなければならないのか。それはひとえに、人類の社会に父親という存在が深く根を下ろしているからである、、、多くの動物たちは父親がいなくても差し支えのない社会生活を営んでいる、、、ところが、人類の社会ではつねに父親が公的な存在として認められており、、、なぜ、かくも人類は父親という存在にこだわり続けてきたのだろうか。」
そして、続く考察で、サル(種々の類人猿)社会では幼児が父親という存在を通して社会化されることはないが、テナガザルとゴリラ社会では父親化の萌芽がみられるとする。そのために必要だったのがインセストタブー、つまり近親相姦の回避だという。それによって世代の基準が明確化する。
しかし、それだけでは足りない。男が父親になるには女から持続的な配偶関係を結ぶ相手に選ばれ、さらにその母親を通して子から選ばれるという二重の選択が必要なのだ。
そのために人類がとった戦略は親族組織の強化だった。常に同居しなくとも影響を及ぼすために「家族」は生み出された。その家族・父親が崩壊したといわれて久しい。冒頭のニュースはそのことを如実に表している。

このところ寒気が日本列島に入り込み、梅雨前線との間でまるで”エディプス葛藤”のようなひょう・あられを地上に降らせている。世の父親諸君、きょうぐらいはみずからの存立基盤を問い直す日にしてはどうか?