建国記念の日の11日、ドイツではリヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー元大統領(享年94歳)の国葬が執り行われた。東西ドイツ統一後初の大統領であり、「ドイツの良心」といわれた氏の言葉「過去に目を閉ざす者は現在にも盲目となる」は皆の知るところとなったが、心身医学の視点から光を当てるとどうなるかを今日は書いてみたい。

1985年5月8日は、日本でいえば終戦の日(8.15)に当たるベルリン陥落日。首都ボン(当時)連邦議会での戦後40周年演説で、その言葉は発せられた。以下に短旨を示す。(東京新聞から抜粋)

『五月八日は記憶の日である。記憶とは、ある出来事を誠実かつ純粋に思い起こすことを意味する。われわれは戦争と暴力の支配で亡くなったすべての人の悲しみを、とりわけ強制収容所で殺された六百万人のユダヤ人を思い起こす、、、
ドイツ人だからというだけで、罪を負うわけではない。しかし、先人は重い遺産を残した。罪があってもなくても、老いも若きも、われわれすべてが過去を引き受けなければならないということだ。
問題は過去を克服することではない。後になって過去を変えたり、起こらなかったりすることはできない。”過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目になる。” 非人間的な行為を記憶しようとしない者は、再び(非人間的な行為に)汚染される危険に陥りやすいのである、、、
人間は何をしかねないのか、われわれは自らの歴史から学ぶ。だからわれわれはこれまでと異なる、よりよい人間になったなどとうぬぼれてはならない、、、』

どうだろうか。第二次世界大戦時、兵役で国防軍入営した経験を持ち、兄を戦地で亡くしたヴァイツゼッカー氏の脳梁から滲み出るような言葉を前に、しばし黙考せざるを得ない。
集団としての人間の最たる愚行は戦争にほかならないが、個人レベルで考えたとき、それは殺人行為にあたるだろう。

以前、父親を殺した男性を診察したことがある。妄想に駆り立てられてのことだった。「やらなければやられる」。彼はその後近所に放火しようとして警察に保護され、措置(強制)入院という形で精神科病院の門を潜った。
薬物治療と安静で落ち着いた後、慎重に彼の生い立ちを探った。多くは語らなかったが、彼同様、父親もアルコールを嗜む職人気質の人であったようだ。幼少時、ちょっとしたことですぐ雷が落ちた。げんこつの嵐に見舞われた。良い思い出は皆無。母のことは印象が薄いという。
こういう場合「脳の病気」に落とし込むことでは解決しない。ではどうしたらよいというのだ。

進化論的にいうと、ヒトは他の動物に比べつねに”早産”で生まれる。直立二足歩行への道を遂げた結果、産道が制限され、40週以上まで頭蓋(大脳)の発達を待てなくなったのだ(それでも難産のリスクは常にある)。その代わり、生まれてからある程度成長するまで、親や周囲が育児という”保育器”を利用して生物学的弱点を補う仕組みをこしらえた。
しかし、育児はピュアな本能ではないだけに、ときおりミスが生じる。現代の親たちが抱える懊悩の一つに虐待(とその果ての子殺し)があることは明白だ。今日も愛知県東海市で22歳の母親による2か月児への虐待がニュースになっていた。翻って、父殺しの彼は育てられ方が誤りだったのか、それとももっと他の問題が横たわっていたのかを探るのは、極めつけの難題だ。

少子化核家族化に伴う諸問題は先進国共通の課題。歴史の時間は過去に戻せない。しかし、ヴァイツゼッカー元大統領のいうように、記憶しつづけることは心の健康にとってもカギとなることがわかってきている。EMDRという治療が虐待などによる心の傷(トラウマ)に有効になる。たしか、中島みゆきの歌『誕生』にもあった。憶えていることの大事さ。元大統領の言葉が決して古びないのには、深いわけがあるのだ。