師走下旬の日曜日、愛知県稲沢市の荻須記念美術館を訪れた。
地元出身の画家荻須高徳の生誕120年を記念して催された展覧会「―私のパリ、パリの私―」。最終日とあって、鉛色の冬空の下でも駐車場が埋まるほど観客が足を運んでいた。

隣町一宮市の出身者として、荻須画伯のことを当たり前に知ってはいた。しかし、それはいくつかの代表作を観たことのある程度で、「ユトリロや佐伯祐三に似た画風」ぐらいにしか思っていなかったことを、すべての作品を観終わって少し恥じた。その理由は、画伯と私が(直接の関係はもちろんないものの)ある“糸”を通して繋がっていたことが分かったためだ。

1901年生まれの荻須高徳は東京美術学校(今の東京藝術大学)西洋画科を卒業するのだが、入学前に名古屋で通った画塾で、のちに同校で同級となる小堀四郎(1902ー1998)と出会った。
小堀は私の通った旭丘高校(当時は愛知一中)の大先輩で、愛知三中(現津島高)出身の荻須と同期ライバルとなり、両者ともパリ留学を果たした。

小中学校の9年間、連続して一宮市の写生展で入選・入賞した経験のある私は、高校以後は絵を描かなくなった。大学卒業後は絵筆でなく、新聞記者としてペンで稼ぐ仕事についた。
1987(昭和62)年6月、東京新聞の武蔵野通信局勤務時代。太宰治の命日の取材を命じられた。
三鷹市・禅林寺で開かれる「桜桃忌」法要で出会ったのが、小堀四郎の妻、小堀杏奴さんだった。

多くの人には、森鷗外の娘、といったほうが通りが良いだろう。鷗外を敬慕して、その墓のはす向かいに自らの墓を建てた太宰を慕う杏奴さんのことは、東京新聞のコラムや当欄に何度か書いた。
杏奴さんからの年賀状にはいつも、角張った青インキの字体で「冬は流感が怖いので、外出しません。春になったら、お越しください」と書かれ、結局お会いしたのは、私が記者を辞めて医学部に合格した時だった。
その杏奴さんが亡くなって23年余が経つ。「婦唱夫随」のかたちで半年後、小堀四郎が亡くなるが、そのひと回り(12年)前にこの世を去っていたのが、四郎の同志、荻須高徳だった。

こうやって書きながら、大きいひと回り(還暦)の自分の歳月に思いを巡らすと、走馬灯のように、いろいろな人との出会いや別れが浮かんでは、消える。
今年も暮れの押し詰まった時に、同業の心療内科で悲惨な放火殺人事件が起きた。コロナ禍も明けない中、先の見通しは今日の冬空のように暗い。それでも、本日買い求めた荻須画伯の記念誌の写真で、キャンバスに一心不乱に向かう画伯のまなざしに触れると、「明日死んでもいいように生きよ、永遠に続くが如く修業せよ」という古言を思い浮かべるのだ。