「堪え難きを耐え、忍び難きを忍び、、」
終戦の日、玉音放送を直接聞き得た戦前派も76歳以上になった。私たち昭和35(1960)年前後生まれの世代は、高度経済成長期に「近ごろの若いもんは、、」と言われ、反発もしたが、大人にかなわないことがひとつあった。
戦争体験。しかし、今振り返ってしみじみ思うのは、まだ、戦争の“残り香”のあったことだった。
街のはずれの原っぱに行けば、銃弾の薬きょうが転がっていることもあったし、夏休み、空襲で焼け残った廃屋で従兄弟と肝試しをしたこともあった。

そんな戦争を知らない子どもたちにとって衝撃的だったのが、昭和47(1972)年、「横井庄一グアム島で発見」のニュースだった。
当時、私は小学5年生。横井さんが帰国した直後からボーイスカウトでサバイバル術を身に着けた。
ハイクでは道なき道を歩き、キャンプではライターなしで火をつけ、野草を調理して食べた。三つのちかいのひとつ目は「神と国とにまことを尽くし、おきてを守ります」だった。〔創始者は英国の退役軍人ベーデン・パウエル卿〕
なので、いちばんの関心事は横井さんがどうやって戦後28年、異国のジャングルでひとり生活し得たかだった。

先日、「横井庄一さん絵本原画とグアム島生活資料」特別展が一宮博物館であり、これを見逃す手はない、と勇んで出かけた。
愛知県生まれの横井さんは幼少時に親が離婚、祖母の家に預けられ、苦労した。旧姓小学校卒業後、豊橋の洋品店に勤務し、20歳で応召、陸軍で4年務めたのち洋服の仕立て屋を開いた。
昭和16(1941)年再召集で満州へ。19年からはグアム島で陸軍伍長として配属され、米軍と戦った。1万9千人の日本兵が命を落とした。生き残った横井さんらは山中に隠れ、カエルや虫を捕まえて飢えをしのいだ。
昭和20年8月15日の終戦の報せはグアムのジャングルまで届かなかった。War is over (戦争は終わった)の米軍の呼びかけは、罠だと思い込んだ。貴重な食料のヤシは、住民に怪しまれないため、一度に全部を採らずに我慢した。最後まで一緒だった同胞2人も死に、ひとりでの生活が続いた。
さいわい、かつての服職人のウデが身を助けた。パゴの樹皮を剥ぎ、水にさらして糸にした。森の木を集めて機織り機を作り、7か月かけて服を一着、織り遂げた。
30年近いジャングル生活の後、魚採りの川で住民に見つかり、捕まった。56歳だった。
札幌オリンピック開幕前日、帰国会見での横井さんの言葉「恥ずかしながら生きながらえて」は後世に残る流行語となった。
帰国後、好奇の目にさらされ人間不信に陥りかけたところを救ったのが、妻になる美保子さんだった。そして、同級で陶芸家の鈴木青々に習い、焼き物に没頭した。

特別展示では、グアム島時代に横井さんが手作りした生活用品が並んでいた。時を感じさせる錆で覆われた鍋や包丁に交じって、晩年に作った陶器が並んでいた。茄子(なす)の花入れだった。その解説文にこうあった。
「親の説教と茄子の花には千に一つの無駄がない」から、好んで作ったと。
いかにも、すべてをひとりで作り出した横井さんらしかった。

日々の診療で、ときどき若い患者さんが嘆息を漏らす。「私はひとりぼっち。ひとりでなんでもしないといけない」。そんな時、私は決まって、横井さんを例に引く。「あなたが着ている服、住む家、食べる物、全部他の人の作ったものだね。あなたはひとりで家にいても、そういった人たちと繋がっているよね。横井庄一さんと違って」。そういって、ピンとくるひとは、もう令和の時代にはいない。
昭和が、ますます遠くなる。