2020年11月

ウツるんです#30呼吸器事件~記者のち医者の視点(2020年11月30日) 

 第9回日本医学ジャーナリスト協会賞の大賞に中日新聞の調査報道「呼吸器事件」が選ばれ、先日、表彰式が東京・日本記者クラブであった。受賞したのは取材班(代表・秦融編集委員)だが、冤罪当事者である西山美香さんの精神鑑定をした私も出席したので、報告したい。

 事件の詳細は、このブログ読者には周知と思うので割愛するが、授賞理由を同協会HPから引用する。
 「24歳の看護助手が患者殺害の罪で逮捕され、13年間、無実を訴え続けた。多くの記者が分担して、西山美香さんから両親への350通の手紙を丹念に読み、裁判記録や中学時代の恩師などの周辺をくまなく取材し、捜査の立証の矛盾を突き止めていく。
 *再審無罪への道のりで重要な役目を果たしたのが、記者の依頼で精神科医師が実施した獄中鑑定だった。この医師は、中日新聞記者として7年間勤務した後、医学部に入り直して医師の道を歩んでいた。ジャーナリストの視点を持つ医師の存在は大きかった。軽度知的障害・発達障害・愛着障害を明らかにし、「供述弱者」を虚偽自白に誘導した冤罪を、精神医学の視点で検証。7回の裁判で有罪認定された困難な状況で、ことし3月に再審無罪になった。
 医学とジャーナリズムの協力によって無実の救済につなげた社会的なインパクトは大きく、冤罪を解く新たな手法として、医学ジャーナリズムに新境地を開いた。」
 第2段落(*)がなんとも面映ゆいが、表彰式当日、進行役の大熊由紀子理事からストレートに訊かれた。「どうして記者から医者になったんですか?」。これまで何度も出くわした質問。ときには「魔が差して」と応じることもあったが、医学ジャーナリスト協会の面々を前にそれはないと思い、こう返した。
 「新聞記者時代、昭和天皇の手術をした先生の担当になったことなどもあって、医学に近づきました。(なにより)自分自身のこころの問題を追求していくことに関心が向いたことが大きかったです」
 「医者と記者の違いはローマ字でいえば、”K”一文字の違いです。人の話を聴くという意味では本質は同じです。記者時代の経験が今の仕事に役立っていると思います」
――KISYA-ISYA=K。還暦も近づき、そろそろ髪の”K”の気になる時期に立派な賞に巡り合えて幸いだった。


 

ウツるんです♯29「憂国忌」にあらためて思う(2020年11月25日)

 11月25日は「憂国忌」。三島由紀夫が東京・市ヶ谷の陸上自衛隊駐屯地で決起を訴え、自害してから50年。作家であり、行動人であった三島の最期をめぐり、夥しい数の論評がなされてきた。それは磯田光一が「三島氏の死はすべての批評を相対化しつくし」たと書いたように、ブラックホールのように戦後民主主義を吸収するかのようだった。
 1970(昭和45)年の事件当時、私は愛知県の地方都市に住むいち少年だった。記憶をたどって出るのは、大阪万博で、アポロ11号が持ち帰った「月の石」を拝むため汗だくで並んだ夏の日と、さわやか律子サンのボウリングブーム、それにテレビで女性の裸が見られる「時間ですよ」の番台シーンぐらいだ。
 その2年後のあさま山荘事件をくっきりと覚えているのとは対照的に、あの日の三島の姿は、報道ヘリの爆音と自衛隊員の怒号にかき消された彼の声とともに、どこかへ行ってしまったようだ。

 後年、新聞記者になってから三島の代表作「金閣寺」を読んだ。――「私の少年期は薄明の色に混濁していた。真暗な影の世界はおそろしかったが、白昼のようなくっきりした生も、私のものではなかった」――目が眩んだ。言葉とはこういうふうに扱うものか。そうひとり嘆じたのをくっきりと覚えている。
 宮内庁担当のとき、昭和天皇が那須の御用邸で静養する夏の取材でのこと。キャップのM記者が空き時間に原稿のマス目を埋めていた。ダグラス・グラマン事件で大スクープを放った先輩が軍用機の話を書いている。記事ではなさそうな雰囲気に尋ねたら、「小説のたね」だという、鵜のまねをする烏となるのが目に見えるゆえ、後に習うことはしなかった。
 
 医者になってから読んだのが、三島の小説「音楽」。精神分析医における女性の冷感症の一症例と扉に記した作品に、こころ医者として興味をそそられた。大衆誌に載り、対象読者層が異なるのか、言葉遣いも金閣寺とは異なり平易で、サスペンス仕立てだったが、フロイトの性理論を踏まえていて、得られた感慨は満足のいくものだった。
 数多くの“三島本”を買い漁ったなかの一冊「平凡パンチの三島由紀夫」(椎根和著、新潮社)に「音楽」について言及したくだりがあった。
 1966(昭和41)年夏、三島邸に男の侵入する事件があった。「蒼白な顔の青年は、、書斎に入り込み、」百科事典の一冊をながめていた。そして、三島にむかって『本当のことを話して下さい』と三度繰り返し」たという。
 三島はこの侵入男のことを小説「荒野より」の中で、「私は自分の影がそこに立ってゐるやうな気がした」と書いた。
 著者の椎根氏はその後、国立精神衛生研究所の片口安史氏が「ロールシャッハ・テストを使って、、ひじょうにつよい内向的な性格である」と判定したと記している。「感情におぼれず、むしろそれをきらい、現実逃避的な態度と、つよい知性的な適応のしかたをしめしている。現実にじかにふれることをさけながら、かえってつめたく現実をみている」のが三島のテスト結果だという。

 三島由紀夫が文章のひとつの範とした森鷗外は「テエべス百門の大都」と評されたが、三島のこの精神分析的評価を首肯する者がどれだけいるのか、こころ医者としての私は、賛成に一票をいれたい。
 

ウツるんです#28 心を耕すのが文化(2020年11月3日)

 文化の日。改めて「文化」について考える。
 このテーマにしたのは菅首相が日本学術会議の会員6人を任命拒否したからである。多くの国民にとって、同会議はこれまで馴染みのない学者団体だったろう。なので、この事件は突然降ってわいたようにもみえるが、事実はそうではない。
 同会議の前身となる学術研究会議の歴史は戦前にさかのぼる。第一次世界大戦でのドイツ潜水艦(Uボート)による無制限攻撃に連合国側が反発し、学術的国際組織からのドイツ締め出しを狙って新設された万国学術会議に、日本からは帝国学士院が参加。国内で呼応する組織として1919(大正9)年、学術研究会議が創設された。〔蛇足だが、第一次大戦時日本は連合国側だった〕
 つまり、日本学術会議は歴史的に戦争と関わる設立経緯をもつが、戦後は科学が戦争に関わることのないようにと装い新たに1949(昭和24)年に発足した。「87万人の科学者を内外に代表する機関」(ホームページ)であり、210人の会員と約2000人の連携会員が活動を行っている。
 現在は内閣府の特別機関のひとつで、公務員扱いで予算も国から出るため、政府は同会議のあり方を再考する時期であり、任命権は首相にあると主張する。だが、法律の条文をキチンと読めば、同会議の独立性は強固で、会員は同会議の推薦をもとに任命される、つまり首相に「拒否権」は存在しないのは法手続き的に明白だ。その問題と、同会議のあり方を(あえて)混同させるのは、事情を知らない国民を欺いたと取られてもやむを得ない。
 一連の議論で一番いやなのは、(どこかのテレビの解説委員も“曲解”していたが)、今回の首相の態度は、法的手続きの問題が「金と政治的思想」問題にすり替わっていることだ。任命されなかった6人の学者の素行調査までしたとの報道もある。しかも、この政府のやり方が一定程度、支持されているという。
 会員の名簿を閲覧したが、私の知る学者もいて、尊敬できる人ばかりだ。当院に通う70代男性も以前、同会議の連携会員を務めた。「大多数の会員はまじめにやっているのに、こんな風に受け止められて、気の毒。岐路は会議が3年前に大学での軍事技術につながる研究開発に反対声明出してからだね」と嘆く。
 たしかに、インターネット始め様々な技術を軍事と民事に明確に分けることは困難だ。ならば、それをキチンと議論すればいいものを、“臭いものに蓋”をし、日本的同調を強いるから、今回のようなことが起きると私は考える。
 文化は国の基本だろう。またひとりひとりのものでもある。英訳culture はラテン語の「耕す」からきている。日本人ひとりひとりの心を耕すことができなければ、この国は危ういと感じるこのごろだ。


 
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