2020年09月

ウツるんです#26 チョコの死、二人称の死(2020年9月21日)

 チョコが死んだ――
 秋の彼岸入りした週末、拙宅の飼い犬、トイプードルのチョコが15年2ヶ月の生を終えた。飼い始めた平成17年夏、共働きの我が家では、小学生だった子どもたちにとって格好の遊び相手だった。もっとも、散歩はもっぱら親の役目だったが。
 人間のおよそ5倍の速さで年を取る犬にとって、令和は後期高齢者に等しい時代だった。今年冬、チョコがだんだんと痩せてきたのに気づいた。血便も出て、動物病院に連れて行ったときには、肝臓と腎臓がやられ、貧血が進んでいた。飼い主夫婦が医者であることは全く役に立たなかった。
 家族みんなで気をもんだ。桜は見られるだろうか?寝床代わりだったソファの座面までの35㎝が跳ね上がれなくなった。食もさらに細くなり、あばらが浮き出た。ドッグフードは食べずバラ肉を好むようになり、病状が進んでのちは饅頭のあんだけしか受け付けなくなった。
 獣医も驚くぐらい一時は持ち直したが、やはり、奇跡は起きなかった。昨日、夜中にむっくり起き上がると、しっかり立てない後ろ足を引きずって、トイレをし、妻の目前でガクッと倒れた。それっきりだった。妻が調べたら、トイプードルの平均寿命は15.2歳。ぴったりだ。
 亡骸を段ボールに納め、24時間電話受付の動物霊園に連絡して、葬儀をした。人間の家族葬のように、専用の炉で焼いてもらい、骨拾いをした。のどぼとけはヒトと同じ形をしている。人間とはっきり違うのは、立派な犬歯と尻尾の骨だった。ああ、犬だなあと思った。

 フランスの哲学者ジャンケレヴィッチ(1903-1985)は人の死を一人称(悲劇の主体=自分)、二人称、三人称(無名性=他人)に分ける。ここでいう二人称は「目の前にいるあなた」ではなく、死者の個別性を深く認識する、平たく言えば、親しい人を指している。
 養老孟司氏はこれに注目し、解剖学者らしく、死を「死体」として考えたときのことを述べる。死体もまた人称変化し、「人」である。戦友の遺骨収集は死体もまた生きていることを示す好個の例だと。

 コロナ禍で一番心傷んだニュースは、死者の葬儀に家族らが立ち会えないことだった。感染防止がその理由だが、二人称の死という最も個別的なことにたいして公がどこまで介入できるのか?
15年もつきあったチョコの死に際し、家族皆がウイルスのことなど忘れて、何度も何度もそのからだをさすっていたことを書き留めておくべきだろう。

 

 
 
 
 

ウツるんです#25 十日の菊の周りには(2020年9月13日)

 9月10~16日は自殺予防週間。感染症と違って、自殺はうつらないかというと、留保が必要だ。有名人のニュースで後追い自殺が生じることは周知のとおり。最近は俳優の三浦春馬さんが亡くなった時、当院でもうつ病の悪化した患者さんが何人もいた。留意すべきなのが遺族や知友への支援だろう。

 40代独身男性。19歳の時、交通事故で頭部挫傷を負い、外傷性てんかんと物忘れや、こらえ性のなさに悩んだ。いくつもの仕事を転々とし、症状が高次脳機能障害によるものと確定したのは40歳を越えてからだった。
 障害者手帳取得の目的もあり、4年前当院を受診。繰り返す確認癖を見守りながら、支援中心の治療が続く。安定してきた先日の診察で「いろんなことありすぎた」と肩を落として、こぼした。
 訊けば、中学時代の一番の親友が自殺したという。「その前になんで相談してくれんかったんのかなあ。最後に会ったのは2、3年前。(中学の)遠足で一緒のグループやった。放課後はよく遊んだ」。3日前のことは忘れても、昔の記憶は岩のように確かだ。
 話すうちに、話題が以前辞めさせられた会社の上司への恨みに転じていた。高次脳機能障害ではよくある。ところが、もう一度、こちらから亡き友のことに話題を戻すと、衝撃的な話をし出した。その親友は自分の乗用車を別の同級生に貸したのだが、なんとその同級生が運転中に交通事故で亡くなってしまったのだ。しかも、事故の相手も同じ学校出身という。なんという奇縁。

 聴いているうち、こちらの内面が揺さぶられた。以前、親しくしていた後輩が自死を選んだときのことを思いだした。意識の水面下をたどると小学生のころ、級友の兄が縊首したエピソードが浮かんできた。三島由紀夫が割腹した翌々年だったと思う。

 たまたまだろうが、自殺予防週間の初日は重陽の節句の翌日。「六日の菖蒲、十日の菊」は節句に間に合わず、無駄になる花から転じて、「後のまつり」を意味する言葉。文字通り、手遅れにならぬ手当をする役割が、こころ医者には求められている。
 
 
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