あの日から34年。毎年「8月12日」に日航ジャンボ機墜落事故に関するブログを綴って6年。ことしは初めての”現場中継”をお伝えする。

 けさ5時半に名古屋を出て、新幹線「のぞみ」から「とき」に乗り換え高崎で下車。車で2時間走ると、御巣鷹の尾根登山口に着いた。事故当時にはなかった、標高差180mの整備された山道を登ること30分。「昇魂之碑」が待っていた。
 犠牲者520人の命日とあって、遺族らが広さ十数畳ほどの山腹で、粛々と慰霊の献花を手向けていた。碑を少し登ったところに黒焦げのまま立ち枯れている樹木があった。幹には「沈黙の木」と書かれたプレート。日航123便はあの日、隔壁破裂ですべてのコントロール系統を失ってダッチロールを32分繰り返した後、この尾根に激突した。燃料に引火して燃えた「証言者」が無言で登山者に語り掛ける。
 尾根筋のあちこちに、墓標が立っていた。坂本九さんのは碑からやや北東に進んだ斜面に「大島九」とある。一人で事故機に乗り合わせた9歳男子の墓には、鯉のぼりとドラえもん人形。ラグビー好きだっただろう男性の墓には、楕円型の青銅ボールのモニュメント。事故で奇跡的に生き残った4人のうちの一人川上慶子さんは家族3人を失った。その家族の木製墓標には「一人は万人の為に 万人は一人の為に」と墨書きしてあった。
 
 あの日僕は記者2年目。夏休み帰省直後、愛知・一宮の実家から取って返し、事故現場に近い総合病院で生存者搬出を待った。吉崎博子・美紀子さん母娘が運ばれてきた。以来、取材担当となり、いくつかの記事を書いた。
 だが、いちども現場の尾根には入らぬまま34年が過ぎた。訪れるチャンスはあったはずだが、どこかで避けていたのだろうか。今年、中日新聞コラム(「元記者の心身カルテ」)を担当し、8月20日に本日の慰霊登山をもとに書こうと思った。
 
 僕とは違い、御巣鷹の尾根に登り続けてきた知人がいる。毎日新聞の萩尾信也記者。海外赴任時を除いて毎年の“皆勤賞”。僕の東京社会部時代に同じ警察記者クラブで働いた尊敬する先輩だ。今年も90歳の遺族登山を手伝い、目立たぬ裏方活動を止めない。
 「御巣鷹はこんな大事件の聖地としては例外的にうまく機能してきた。女性が中心となって手作りの会をまとめてきたのがよかった」と振り返る。汗をかいて下山し、ひと風呂浴びて、アイスクリームを舐めながら語る萩尾さんの姿に、単独航空機史上最悪となった事故の歴史を感じる。
 そして、墜落時刻の午後6時56分。ふもとの慰霊の園では、520のローソクに灯をともす供養が営まれた。山あいの土地のせいか、7時になると一気に夕闇が下りた。
 やっぱり、現場に勝るものはない。これを読まれる皆さんも、ぜひ一度、御巣鷹の尾根に登られることをお勧めする。