樹々の葉に色づきが増した週末の日本シリーズ、福岡ダイエーホークスが横浜DeNAに逆転勝ちし、4勝2敗で日本一に輝いた。野球観戦が楽しみの庶民にとって、寒さに縮むストーブリーグに突入する時期。きょうのブログでは、今年がプロ野球にとっても、そして私達日本人にとっても、区切りの年だったことを書き留めておきたい。

沢村賞 : その年1年間で最も活躍した先発完投型の投手に与えられる賞。長島、王さんを除き、プロ野球史上最も代表的な選手を尋ねた時の筆頭が沢村栄治(以下敬称略)だろう。今年はちょうど彼の生誕100年。
ロシア革命の起きた大正6年、沢村は三重県・宇治山田で八百屋の倅(せがれ)に生まれた。京都商業を経て、日米野球に参加、静岡・草薙球場でベーブ・ルースらを相手に快投した試合は野球ファンの間で語り草となっている。高く足を挙げた独特のフォームから繰り出す快速球を引っ提げて、プロ野球創成期に巨人軍へ入団した。
しかし、時代は戦前。昭和11年に日本職業野球連盟が発足し、球界初のノーヒットノーラン達成など活躍中の沢村にも召集令状は届いた。形式上、夜間大学に籍を置き、徴兵延期を狙う選手もいるなか、中学中退でプロに参加した沢村にその抜け道は使えなかった。さらに、「巨人軍の看板選手である沢村は、徴兵を厭うが如き姿勢をあからさまに見せることは困難であった。」〔『戦場に散った野球人たち 』 早坂隆  文藝春秋より〕
酒を飲まない沢村は給料の過半を実家に送金し、軍隊に取られても訓練に明け暮れた。手榴弾投擲(しゅりゅうだんとうてき)競技で78mの最高記録を出して連隊長特別賞を受けたが、昭和13年、中国大陸で左手掌貫通の銃弾創を負った。
昭和15年、満期除隊で巨人軍に復帰したものの、往年の球速は失われていた。手榴弾の投げ過ぎで肩を壊したせいもあった。それでもカーブ中心の技巧派として復活し、結婚もして幸せを感じたのも束の間、16年10月、真珠湾攻撃の直前に2回目の召集が来た。
フィリピン密林での 激戦を生き延び、18年帰国。しかし、身体はすでにボロ雑巾同様になっていた。最終シーズンを0勝3敗で終えると、翌年に球団から解雇された。その秋、3度目の召集。昭和19年12月2日、沢村を乗せた輸送船はレイテ海戦に向かう途中、アメリカ潜水艦の魚雷で撃沈。帰らぬ人となった。

野球少年だった僕は、沢村のエピソードをある程度知っていた。小学生の時、人気絶頂だった梶原一騎原作「巨人の星」アニメで、沢村の球を受けていた吉原正喜 捕手の事を紹介する回があり、印象に強く残っている。仏壇のある祖母の部屋には、戦死した祖父の軍服姿の遺影が飾ってあった。その光景がいま、甦る。
今回、生誕百年を機に沢村栄治を調べようと、『戦場に散った野球人たち』を探し読んで驚愕した。 早坂氏は太平洋戦争に召集されたプロ野球選手7人を取り上げ、丁寧に彼らの生きた道筋を辿っているが、その中に、沢村、吉原と並んで、わが故郷一宮出身の朝日軍(当時)エース、林安夫投手がいたからだ。
沢村の5歳下、大正11年生まれの林は、一宮中学(現一宮高)で昭和16年、春の選抜野球大会に出場し、準優勝を果たした。翌年、朝日軍に入団すると新人で32勝22敗、最優秀防御率1.01という途轍もない成績を残している。
さらにすごいのは投球回数541回3分の1、51先発、44完投。前二者は平成の今に至るまで破られていない大記録だが、その理由が悲しすぎる。
「どうせ直に兵隊に取られるのだから、今のうちに思いっきり野球をやっておきたい」〔同書171頁〕。
プロ野球生活2年で、悲劇の赤紙は林のもとにも届いた。昭和18年12月、呉の海兵団に入隊した。そこから千葉に移り、実地訓練。翌年暮れにフィリピンへと出征したが、その後の消息は不明である。
安夫の弟で、のちにプロ野球入りした林直明さんがため息をついた。
「兄が亡くなった日時も場所も、未だに不明のままです」〔同書180頁〕。

3年半前に亡くなった僕の父は一宮高野球部。つまり、林安夫の後輩にあたる。
たかが野球、されど野球ーーー