2017年10月

続・神の一手を目指して〜AIワールド前夜に〜

名古屋市東区・日本棋院中部総本部で鯱光(ここう)会囲碁大会が開かれた。鯱光会は僕の出身校である愛知県立旭丘高の同窓会名。ことしは記念すべき第10回だったが、2週連続で日本列島を襲ったサンデー台風の影響もあり、参加者は二十数人。それでも、節目の開催に現役高校2年の中川朝子さん(4段)が参加。プロ棋士の青葉かおり、池崎世典(ときのり)両先生の指導碁などで盛り上がった。〔ついでに、僕も対戦相手に全勝して賞を頂きました〕。

ひと昔前まで、囲碁将棋といえば盆栽と並んで“じじい”の趣味と思われていた。それがいまや、将棋は愛知県が生んだ中学生棋士・藤井聡太四段の大活躍でトレンドになったし、囲碁は井山裕太九段が全タイトル七冠を再達成してワイドショーでも話題となるご時世。少年時代からの「碁キチ」人間としてはうれしい限りだ。

昨年4月24日付当欄でこの話題を取り上げた。井山七冠達成を祝すいっぽう、人工知能(AI)が世界トップ棋士を破った知らせに驚愕したのがその理由。ところが、あれからわずか一年余で事態はさらに進み、プロがAIに勝ったら逆にニュースになる始末。はたして誰がこの急展開を予想できたろう?

囲碁は黒石と白石を交互に碁盤の目に置いていき、陣地〔人知〕を争う単純なルールのボードゲーム。その組み合わせの膨大さから、コンピューターがチェス王者を破った20年前は、囲碁の組み合わせの膨大さゆえ、人間に勝つのはずっと未来のことと思われていた。ところが、バブル経済破綻のツケを払ってきた平成も終盤になり、AIという“神の一手”が降臨してきたわけだ。ーー。

娘が成人して運転免許を取り、初心者マークの助手席でハラハラした先月。しかし、このぶんだと意外と近い将来、心配はAIの自動運転にお預け、という時代になるやもしれぬ。僕の仕事である医療界でも、AIを駆使した医療ロボットが活躍する日も近いだろう。患者さんの心を読み取るロボットがしゃべる光景を想像すると、背筋が凍る思いもするが、、、。 

囲碁の別称として、黒石を烏(カラス)、白石を鷺(サギ)に見立て、「烏鷺(うろ)」という。ときおり、顔を出す名古屋・栄の碁席は『烏鷺朋(うろとも)』。また、中国三千年の歴史を起源に持つ囲碁は相手との交渉の席でも嗜(たしな)む芸技とされ、「手談」とも呼ばれる。
朋あり、遠方より来る、また楽しからずや〔論語〕ーーAIともそう呼べる関係を築ければ、人間の世界も少しはマシになるのだろう。

再・10月10日は体育の日

NHK朝の連続テレビ小説「ひよっこ」が9月末で終了した。舞台は1964(昭和39)年からの数年間、高度成長期の東京と茨城北部。地元農家の長女で主人公の谷田部みね子は高校を卒業すると、出稼ぎ中に失踪した父の実を探すため、集団就職で上京した。最初は下町のラジオ製作工場で働くが会社は倒産。実の縁で知った赤坂の洋食屋でウェイトレスとなり、そこで織りなす人間模様をテーマにドラマは展開する。
紹介したかったのは、番組序盤の印象的なエピソードだ。
高校卒業を控えたみね子と親友の時子、みつおは、東京オリンピックの国内聖火リレーニュースを聞き、コース選定されていない奥茨城で、せめて自分たちの手作り“聖火リレー”をしようと奮闘する。最初は無理だと周囲から一笑されるみね子たち。だが、こんな片田舎でも気持ちは同じと、情熱を傾ける姿にやがて大人たちも理解を示し、ついに一日数本しかバスの通らない村で自前の聖火リレーを実現したーー

あれから半世紀を経て、再び東京の地でオリンピックが開催されるまで3年を切った。蚊帳も黒電話もニ槽式洗濯機も知らない世代が金メダルを目指して泳ぎ、投げ、走る。人生最初の記憶が東京オリンピックという僕にとっても、国立競技場上空でブルーインパルス5機によって描かれた、あの“五輪雲”のように、ある想いが幾重にも連なって脳裏を駆けめぐる。

長谷川金明(はせがわ・かねあき)〔1948ー1976〕。有名人ではない。愛知県一宮市に生まれ、郷里の体育教諭になった。赴任先が一宮市立南部中。勤務4年目の昭和49年、僕はその中学に進み、長谷川先生が担任となった。体育教師としては細身の身体。顔つきは、そう、Jリーグの中村俊輔選手を思い起こせばよい。皆、本名ではなく、音読みで「きんめい」先生と呼んだ。
金明先生には年子の妹、美知子さんがいる。ラジオパーソナリティーのつボイノリオ氏と同級生。〔そのことは以前当欄で伝えた。アーカイブ『10月10日は体育の日』を是非ご覧下さい〕。以下は美知子さんから聴いた話だ。
父が公務員、母が教師の共働き家庭のため、長谷川家の家事は兄妹の仕事だった。高校受験前、先生は風呂焚きで薪割りに精を出したが、一宮高に進学して陸上競技にのめり込むと、風呂当番は妹に代わった。
「面倒見のいい人でしたよ。私が短大に入ってからも、お小遣いくれましたし。教師の仕事が好きだったんでしょうね、土日も泊まり込みしたり。当時は許されてたんでしょうけど、仕事が遅くなって、お酒が入ったからって、学校に自分の車置いて、私が送迎したこともありました」。
バスケ部顧問で、生徒が試合に負けると、約束通り自分も坊主頭に刈ってしまう潔さが身上だった。

その金明先生が、病に倒れた。僕が中三に上がった年だ。大腸癌だった。腹痛で何回も町医者に通ったが、大したことないとあしらわれた。体育館で逆立ちして痛みを紛らわすことができなくなってようやく市民病院に掛かり、手遅れとわかった。交際女性と籍を入れた頃のことだった。
そして、体育の日の直前、苦しみの中で息を引き取った。葬儀の日、あの秋空の、抜けるような青さが目に沁(し)みたのをいつまでも憶えている。
以前にも書いたように、金明先生は高校1年の秋、東京オリンピックの聖火リレーで一宮市内を走った。中学時代、バスケ部で後輩の坪井令夫(つボイノリオ)君を指導した熱情そのままで、、、。
先生の三十三回忌のとき、美知子さんに聖火リレーの写真を見せてもらった。今年の朝ドラ、茨城での“手作りリレー“をテレビ画面で見つめながら、あの垂れ目の先生をダブらせていた。ドラマのあの場面はてっきりフィクションだと思っていたら、実話に基づくストーリーと最近知った。それをきんめい先生の墓前に報告してあげたい。ーー体育の日は、どうしても10月10日だよね、先生ーー





 
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