2017年07月

続・われらが内なるヒトラー

神奈川県相模原市の知的障害者施設「津久井やまゆり園」で入所者46人が殺傷された事件から丸1年が過ぎた。ーー
天皇陛下は日本人の忘れてはならない4つの日として、沖縄戦終結、広島・長崎の原爆投下、そして終戦の日を挙げる。
もし僕がそれに4つ加えるなら、太平洋戦争開始〔真珠湾攻撃〕、東北大震災による原発事故、オウム・サリン事件、そしてこのやまゆり園殺傷事件を選ぶだろう。どれも常識を超えた事件であり、かつ、まぎれもなく我々日本人の手による “人災”である。ーー

やまゆり園事件発生後、ワイツゼッカー元ドイツ大統領の名演説を引き合いに当欄を埋めた〔アーカイブ2016.7.31.『われらが内なるヒトラー』をお読みください〕。
「過去に目を閉ざす者は、現在に対しても盲目となる」(1985.ドイツ連邦議会)。第二次世界大戦でナチスドイツを生んだ深い反省が、スピーチの背景にある。劣った人種は排除されるべきという優生思想への猛省。

やまゆり園の元職員だった犯人、植松聖(さとし)被告は、中学時代は障害者に好意的だっという。その彼が最近、中日新聞に三通の手紙を書いた。正確に意思疎通がとれない人間である重度・重複障害者は「幸せを奪い、不幸をばらまく存在」で安楽死対象となる、と主張している。
マスメディアのインタビュー、手紙のやりとりなどの言動は、精神鑑定で自己愛性パーソナリティ障害と指摘された植松被告の側面を物語るが、精神障害者である〔だろう〕彼が、より弱い立場にいる知的障害の人たちを殺(あや)めたという悲劇性に胸が痛む。
自己を大切にできない者の心中で、むしろ自己愛は肥大化する。追悼式典で、自己愛モンスターの毒牙に傷ついた入所者たちの名前が公表できないのが今の日本であるという現実を、われらは直視せねばならない。彼/彼女たちを“いっしょくた”にするな!そこにはひとりひとり、固有の“名前”が存在するのだ!

この事件の教訓として導き出されるのは詰まるところ、われらの心中に棲む「選別思想」なのだろう。
悲しいかな、ヒトラーや植松被告に共通するこの思考回路は、すべての人間に通じていると言わねばなるまい。

たとえば、滋賀湖東記念病院で人工呼吸器を装着した老人が死去した理由を、知的・発達障害を抱える西山美香さんに押し付け、殺人事件に仕立て上げてしまう警察・検察。国家権力側が立てた筋書きは、看護助手(資格不要)は看護師に比べ待遇が悪いという“一般常識”を援用し、「差別される側」がさらに弱い物言わぬ患者を差別するという構図に当てはめたものだ。
その欺瞞(ぎまん)性にこれまで気付かなかった裁判所は、徹底した医学的検討を怠ったために冤罪事件を生み出したといえるが、それだけではないと僕は考える。裁判官ひとりひとりの心の内に巣食う例の「選別思想」が、安易なストーリーにお墨付きを与えてしまった、とはいえまいか?

原発や猛毒、いや戦争すらも凌駕する巨大なデーモン、それがやまゆり園事件に鳴り響く通底音ーー



 

続・プロフェッショナル~自白と告白~

5・28ブログからひと月半。これだけ長期間、更新しなかったのはいくつかワケがある。最大の理由は僕の怠惰な性格であり、ひとつは前回分をできるだけ多くの人に読んでもらいたかったためだ。“楽屋ネタ”はなるべく避けるべし、なのだろうが、それだけ思い入れの強い文章だったので、冒頭から言い訳をさせていただいた。

さて、六月はいろいろな事件事故が世間をにぎわせた。北九州の記録的集中豪雨被害を気にしながら、ではどんなニュースが、、、とインターネットをのぞき見て驚いた。
社会関連記事で、小林麻央さんの早すぎる別れを抑えて2位にランクインしていたのが、東京・江戸川での痴漢騒ぎだったからだ。
ネット記事によると、6月3日(土曜)午前0時10分、JR総武線平井駅ホームに到着した下り列車で、知人女性3人と乗車していた20代中国人女性が突然「あなたは痴漢です」と日本語で叫んだ。ホームの非常ベルを鳴らして警察が駆けつけ、疑われた男性との間で押し問答。「違う」と訴える男性を援護したのは、事件を目撃した複数の乗客だった。男性の肘(ひじ)が女性の顔に当たって揉めたのが発端とみられ、結局男性は釈放された。
今回は訴えたのが中国人だったことが一つのカギと、記事にある。「気が強いから、自分が被害者だと思ったら、、大騒ぎして周囲を味方にして、相手(加害者)を追い詰めます」(Infoseekより引用)

10年前、痴漢冤罪をテーマにした映画が製作されたーー『それでもボクはやってない(周防正行監督)』。
ある朝の通勤電車。主人公のフリーターが女子中学生に痴漢と間違えられ、逮捕・起訴された。無実の罪をかぶって示談に応じる妥協案を拒んだためだ。
裁判では、検察側立証が不十分と考えていた良識派裁判官が異動となり、検察寄りの心証形成をしていた後任判事により有罪が下るーー「それでも僕はやってない」と主人公は決意を新たにする。

『それでも』が高評価を得て日本アカデミー賞を獲得したのは、作品の完成度に加え、誰もが共感する要素を持っていたからだろう。実際、表舞台に現れない無実の痴漢容疑者が数多くいるとおもわれる。
一番の問題は事件が“見えないこと”にある、と僕は考える。周防監督の映画製作のきっかけとなった例にせよ今回の江戸川のケースにせよ、一部始終を撮影したビデオがあれば、一件落着までは一気呵成だ。

それゆえ、公共の場で「防犯=監視ビデオ」が並置される時代となった今の日本で、警察・検察の取り調べの完全録画化が最優先されるべき重要政策と考える。それまでの間、捜査側の調書はすべて公判開示を義務付けること。これは、冤罪事件の“専門”弁護士である今村核氏も著作『冤罪と裁判』(講談社現代新書)で的確に述べている。

さて、本日の核心はここからなのだが〔前振りが長すぎて、すみません〕、7月9日付中日新聞で再度、“例の冤罪事件”特集を書いている。
「西山美香受刑者の手紙Ⅱ①初動捜査」ーー人工呼吸器でやっと生きていた72歳の男性が亡くなった理由を巡って、常識ではありえないストーリーを捜査側が描き、その通りに“自白”、供述した看護助手が殺人罪に問われた事件。知的・発達障害を抱えた西山さんにとって思いもつかぬ筋書きを作った結果、もぐらたたきゲームやオセロゲームのようにめまぐるしく、供述が変遷する事実を丁寧に追っている。
井本拓志記者は書く。(呼吸器のアラームが)「「鳴らなかった」ことと「殺人」を両立させるには、そのシナリオしかなかったからではないのか」
西山さんの冤罪が晴れることはもちろんだが、自白を真の意味で「プロフェス(神の前での告白)」とするには、権力者(捜査側)のみならず、誰にでも経過を見えるようにすることが必要である、そう告白したい。





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