2017年02月

沈黙ー信じることの意味

十年一昔をひと区切りとすれば、4回もさかのぼりし昔の話。
詰め襟に五分刈り頭の中学二年生が、生まれて初めて 女の子から贈り物をもらった。ーーそう、バレンタインデーのチョコレート。交際することもなく、当時はホワイトデーなるお返しもなく、沈黙のままお礼をしたかどうかさえ忘却の彼方。甘酸っぱい感触だけが心の片隅に残る。

成書によると、日本でバレンタインデー(Vデー)が生まれたのは1958(昭和33)年、世間に定着したのが70年代後半〔ということは、僕の場合はその走りだったか、、〕。いまや義理チョコ、友チョコ、自分チョコと業界あげての年中行事となった感が強い。
おそらく大多数の人にとって、クリスマス同様キリスト教と深い関係があるとの共通認識だろう。だが実際は、Vデーには複雑な歴史があるようだ。
Vデーの起源とされる古代ローマのルペルカリア祭。結婚の女神ユーノ(Juno、六月Juneの語源)と豊穣の神マイア(Maia、五月Mayの語源)を祭る。
当時、ローマ帝国の若者男子は女子と分かれて生活をし、ルペルカリア祭の時のみクジで当たった女性と一緒に過ごせる習わし。そこで夫婦となる男女も多かった。キューピッド役をしていたのが司祭のワレンティウス(バレンタイン)。異国で戦う兵士が妻を故郷に残しては士気に関わると懸念したローマ皇帝は、風紀を乱すとの理由で彼を処刑する。
異教徒の祝祭であるルペルカリア祭を排除したかったキリスト教会はこれに乗じ、殉教の日をバレンタインデーとした〔これには異説もある〕。以来、Vデーには男女の愛の告白がつきものとなった〔チョコレートとは関係無い〕。

芥川賞作家の遠藤周作(1923-1996)はクリスチャンだった。〔僕ら世代にはインスタントコーヒーのテレビCM、孤狸庵先生でお馴染みだが〕。終生、日本の精神風土とキリスト教との関係を追究した彼の代表作が『沈黙』(1966)。世界20ヶ国以上で翻訳されている。
舞台は17世紀、江戸初期の長崎。鎖国政策が進み、キリシタンが弾圧されるなか、布教途中に師が棄教したとの噂が本国ポルトガルに届いた。真偽を確かめるべく、同僚司祭と長崎に潜入した主人公ロドリゴは、日本人信徒に降りかかる拷問と殉教に接し、苦悩する。しかも、かつての師は改宗して妻帯、日本名を名乗り、ロドリゴを諭してきた。
「この国は考えていたより、もっと恐ろしい沼地だった。どんな苗もその沼地に植えられれば、根が腐りはじめる」。
逆さ吊りの拷問を受ける信徒を目前にし、ロドリゴは最後に“踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている”と神の声を聞く。

「神の沈黙」という重いテーマを描いたこの傑作がことし、映画化された。
ニューヨークの労働者階級に育ったマーティン・スコセッシ監督は幼少時、司祭になりたかったという。「人間は本来、善なのか悪なのか?」と贖罪をテーマに映画を撮り続けてきた。原作を読んで28年。遠藤氏没後20年を経て、監督の想いが実現した。
バレンタインデー目前の日曜、映画『沈黙-サイレンス-』を観た。小説を読んでいたので、3時間近いフィルムを追ううちにデジャ・ヴ(既視感)にとらわれた。主人公役のアンドリュー・ガーフィールドはもちろん、ロドリゴを何度も裏切り、ユダを連想させる日本人信徒キチジロー役の窪塚洋介や、通訳役の浅野忠信ら日本人俳優の演技が素晴らしかった。そして、残酷なまでに迫真的な拷問場面が両のまぶたを刺激した。

遠藤周作氏は別の文章でこう書いている。
「弱者―殉教者になれなかった者―たちは政治家からも歴史家からも黙殺された、、彼らが転んだ(註:棄教のこと)あとも、ひたすら歪んだ指をあわせ、言葉にならぬ祈りを唱えたとすれば、私の頬にも泪が流れる、、彼らを沈黙の灰の底に、永久に消してしまいたくはなかった、、」

当院患者さんで、カトリック信者の夫に先立たれ、悲しみを抱えながら独居生活を続ける女性がいる。彼女はときおり、神父さんに告悔をし、自分を保っている。自殺できないのがつらい、といわれる。診察では、薬は睡眠薬一種類のほか出さない。いわば、神父さんの補助役をしていると思っている。
彼女が遠藤周作読書会に参加していると聞いた。『沈黙−サイレンス-』は怖くて観れそうにないといっていたが、ぜひ鑑賞を勧めたい。そして沈黙の声を聴けたか、訊いてみたい。




頼りの無いのは良い便り?

人から頼みごとをされて、そりゃぁ場合によりけりだ、と答えたくなる事がある。英訳してみれば、It depends. となろうか。dependを辞書で引くと「頼る、依存する」と訳されている。pend の語源はぶら下がるだから( ペンダントpendantと同じ)、コアラの子が母に捕まるように、誰か/何かにしがみつく雰囲気がよく出ている。
元プロ野球選手清原和博氏が覚醒剤所持で捕まって1年。その後、歌手のASKA氏が同様に逮捕され、興味本位な報道のあり方も問われるなか、今日は頼ることについて、ひとこと。

キヨマーやASKAは、精神医学的にいう覚醒剤依存症。日ごろ、いろいろな依存症の患者さんと相対している。 いわく、アルコール依存症、ニコチン依存症、、。これらの物質(薬物)依存に対し、異性交遊やパチンコなど人間関係や特定の行動に対する依存症もある。
最近多いのが、“インターネット依存”。カッコつきとしたのは正式な病名ではないからだが、その本質は同一で、脳内の報酬系という部位が制御しずらいタイプの人たちに多いと見られている。嗜癖(しへき、addiction)と呼ぶこともある。かつて流行ったテレビCMをもじった“カッパえびせん症候群”〔やめられない、止まらない〕で説明すると納得される。

依存症の詳しいメカニズムは昨年の当欄や成書をご覧いただくとして、他のメンタルクリニックに比べて多く診ているのが、「 食べ物依存」つまり摂食障害だ。
自分の“意思”で食べ過ぎたり、食べなかったりするのではないか?いまだにそう捉えている方が多いのに驚く。特に家族からそういった見方をされると、本人は辛い。
多部瑠奈 さん( 25歳)は一児の母。小学2年で両親が離婚、妹と母の3人暮らしも18歳まで。母が娘たちを置いて別の男性の元へ。街で出会った男性の子を宿したが、関係は続かず、未婚のままシングルマザーに。つわりがきっかけで、出産後も食べるのが苦痛となり、あちこち病院を回った。子を保育園に預け、夜の仕事に就いてたころ「吐けばいいんだ」と気づいてからは、過食に転じた。
やせ願望がそれほど強いわけではない。 ただ、どこかで、自分を罰したいという気持ちが潜むのを当院に通うようになって自覚し始めた。「過食に頼っちゃいけないことは分かってるんだけど」という瑠奈さんに僕は言う。
「過食嘔吐自体は悪くも何ともない。 あなたがそれで自分のストレスを吐き出し、幸せになれるのなら。でも実際にはそうなっていないね。その根っこのところを一緒に見つめて行こう」。
「グァム島の横井庄一さんやルバング島の小野田寛郎さんみたいに、誰にも頼らずに生きていくことは、今の僕たちにはできない。人は、何かに頼って生きざるを得ない。小さい頃に上手く頼れなかった反動が、今の過食につながっているのかもしれないね、、、」

先日、人の視線が気になる若者がマスクをして顔を隠す「マスク依存」が拡がっているとテレビ報道していた。コミュニケーション能力の低下を憂う専門家のコメントが流れたが、なんの、マスクして外出できるのなら、それも良し。
「伊達直人だって、タイガーのお面を着けてたよね」。
 
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