2017年01月

ウソから出たマコト

鷽〔ウソ。学名ピルフラ・ピルフラ・リネウス。スズメ目アトリ科〕。古来、學問の神・菅原道真ゆかりの鳥として知られる。木彫りの鷽を正月に新調することで、前年の凶事を「うそ」にして幸運に「とり」替える鷽替え神事が各地の初天神で執り行われる。ーー

酉年早々のビッグニュース。大相撲 初場所で大関稀勢の里が優勝し、19年ぶりの日本人横綱誕生となった。
茨城県牛久市の中学を卒業して角界入りした萩原寛少年は鳴門部屋に入門。たたき上げで苦節15年、力士の頂点に立った。今場所14日目に横綱白鵬が破れ、優勝が決定した時に流した涙には、言い尽くせぬ思いが込められていただろう。
「稀勢の里」のしこ名は、おしん横綱(隆の里)として知られた先代師匠鳴戸親方から「稀(まれ)な勢いで駆け上がる」意味を込めて贈られたもの。188㎝、175㎏の体格を活かし、貴乃花に次ぐ年少記録で新入幕まで進んだが、そこから昇進スピードは大幅にダウンした。土俵際での逆転負けが目立ち、先輩力士から「精神的な弱さを克服しなければ」と苦言されたこともある。

だが、ここで重大な事実を示しておかなければならない。
稀勢の里は五度、綱とりに失敗を重ねた末、横綱の地位を獲得した。これはとりもなおさず、彼が全力で取組を続けてきた結果でもある。
6年前、週刊誌の告発記事をきっかけに社会問題化した「八百長疑惑」。結局、モンダイの抜本的解決には至らず、前代未聞の春場所中止で決着した。しかし、現実にはまだ“注射”(金銭の絡む星の貸し借り)は行われている。角界を知る関係者から直接聞いた話だ。
※〔補足すると、弱いから八百長をするわけではない。実力随一の某横綱も油断や偶然で星を失うことはある。怪我も含め、それらを避けるための方便という本音が、当事者の心うちにあるのではないか〕
その中で、貴乃花部屋などとともに数少ない“ガチンコ”力士として、稀勢の里は土俵に上がり続けてきた。入幕以来休場はわずか1日。昨年は年間最多勝を得ながら、優勝経験のないただ一人の大関だった。そして、横綱就位を前にしたインタビュー。「まっとうに生きて、相撲道に精進したい」。ウソ偽りない人間の言葉だった。

精神疾患に虚偽性障害(作為症)という疾病がある。
自ら症状を作り出し、そのことで意識の水底に沈んだ心の叫びを訴える。ただし、何か具体的な利益を得ようとする「詐病」〔例;うつを装い、嫌な仕事から逃れるなど〕とは異なる。本人は、症状にある意味依存している。治療するにはまずその水底をしっかりと理解し、共感する必要がある。
かつて、原因不明の高熱を繰り返す女性がいた。何回検査しても、炎症所見のCRPは陰性で、症状は熱だけ。看護師立会いで測定したら熱は治まったが、その後1日50回以上の下痢が続いた。彼女は生後数ヶ月で捨てられ、実親を知らずに育った。養親への葛藤が渦巻いていると知ったのは、診察し始めてずいぶん経ってからだった。

芥川龍之介の小説『藪の中』は、今昔物語集に題材を採った心理劇。京都のやぶの中で若夫婦が山賊に襲われ、夫が縛られる前で妻は姦淫される。その後、妻は消え去り、夫の死骸が見つかる。発見者らの陳述のあと、捕まった賊、清水寺に懺悔しに現れた妻、巫女の口を借りて語る夫の霊が三者三様の証言をする。〔真相がわからず迷宮入りする様子を「やぶの中」というのは、この小説から来ている〕
宗教人類学者の植島啓司氏はwebコラムで『藪の中』を論じ、最後にこう述べている。
「嘘は、単に自己正当化のためのものではなく、もっと大きな社会的役割を持っているということである。人間同士のあいだにひそむひび割れ(ギャップ)をなんとか見えないようにするための無意識的な振舞いなのかもしれない、、、」

鷽替え神事の鳥・ウソの語源は、嘘つきではない。この鳥の鳴き声が口笛のように聞こえることから、その古語「うそ」から来ている。
稀勢の里はその名の通り、今の角界では稀(まれ)なこころを持った関取だと思う。横綱となっても、マコトの口笛を吹いてほしい。

夕やけを見ていた男~みなしごへのエール~

作家の嵐山光三郎氏が雑誌「文藝春秋」で興味深いコラムを綴っていた。題は『人生十五番勝負』。一生を大相撲にたとえ、5年毎に区切り、それぞれ自己評価で勝ち負けをつけるのだ。今年75歳で後期高齢者入りした嵐山センセイは勝ち越し目前とのこと。さて、この男の人生総決算はどうだったのか?――きょう没後30年を迎えた劇画原作者・梶原一騎。

当院に通う30代後半の男性会社員Aさん。うつ病までいかないが、慢性の憂鬱でときおり仕事に行けなくなる。彼のストレス解消法がボクシングだ。時も時、Aさんに梶原一騎のことを訊いてみた。
「だれですか?あぁ、あしたのジョーなら知ってますよ。ちばてつやの。えっ、原作者がいたんですか。知りませんでした。巨人の星(の原作者)と同じ人なんですね」

戦後漫画史上最高の評価を得た名作『あしたのジョー』(画ちばてつや、原作高森朝雄)。ファンにとっては当たり前だが、高森朝雄とは梶原一騎の別ペンネーム。昭和40年代当時、週刊少年マガジンで『巨人の星』(画川崎のぼる、原作梶原一騎)と同時連載となったため、同じ梶原一騎名ではまずかろうと、梶原の本名・高森朝樹を一字変えて発表された。以後、高森朝樹を偲ぶ文章を綴ろう。〔出典は『夕やけを見ていた男 評伝梶原一騎』(斎藤貴男、新潮社)〕

スポ根作家として高度成長時代の寵児となった梶原一騎の由来は、平安時代末期、宇治川の戦いで騎馬に乗り、先陣争いをした梶原源太景季(かげすえ)だといわれる。その話は小学生のとき、源平合戦の子供向け小説を読んだので、義経のひよどり越の逸話とともによく覚えている。挿絵が秀逸だったからだ。しかし、ペンネームの本当の理由は違った(後述)。

高森家のルーツは熊本の阿蘇。朝樹の祖父貞太郎は幼少時、放浪癖のあった父と別れ、母も17歳で他に嫁いだ。独力で大学を卒業し、英語教師となった。父龍雄は筋の通った元教師、雑誌編集者で俳句や絵画もたしなむ文化人。酒豪だが決して乱れなかった。母や江は大柄で、激しい気性。彼女の兄の自殺がきっかけで兄と親交のあった龍雄と結ばれる。昭和11年秋、東京の下町で長男に生まれたのが朝樹だった。弟に真土、比佐志がいる。
4歳下の真土(作家真樹日佐夫)が振り返る。「うちは、お父ちゃんの方の血が知性なら、おふくろの方は乱暴者で、情念の血」。
その血をどう継いだのか、朝樹は幼少時からケンカっ早いので有名だった。青山学院の前身となる私立小に入学したものの、1年もたたずに上級生に大怪我をさせ、公立小に転校せざるをえなくなった。
そのころ、太平洋戦争の時局は進み、高森三兄弟は母と宮崎に疎開した。朝樹は近くにあった軍基地の特攻隊員と仲良くなり、避けられぬ死について思いを巡らせた。
戦後、川崎に戻った朝樹はボクシングにハマり、元東洋フェザー級王者ピストン堀口のファンとなる。相手に好きなだけ打たせてから蒸気機関車のピストンのように連打する堀口は、その戦型の果てにパンチドランカーとなった。国鉄の線路上を歩いているうち、向かってくる列車を避けきれなかった。
梶原一騎の作品は名作も駄作も、決してハッピーエンドでは終わらない。その原点は、ピストン堀口の死にあった。
その後、朝樹の乱暴ぶりはエスカレート。再度同級生に怪我をさせ、学校にいられなくなる。昭和25年春、13歳7か月の朝樹は東京・青梅の誠明学園に入学した。そこは児童福祉法で規定された教護院〔今の児童自立支援施設〕。少年院ではないが、不良行為のある児童を入所させ、生活学習指導を通して心身の健全育成を図る場所だ。
同学園で過ごした3年間が朝樹の人生観に重大な影響を及ぼした。入所者の大半が親の揃わない“みなしご”だった。食糧事情の悪かったころで、体格に勝る朝樹は施設のボスとして振る舞うようになる。『あしたのジョー』で有名な矢吹丈の少年院での描写は、この時の経験を色濃く反映したものだ。
そして、先述のペンネーム由来。それは、施設生活で一緒だった女性に惚れたためだ。彼女の姓が「梶原」だった。

梶原一騎は本当は劇画原作者でなく、小説家になりたかった。その劣等感が、教護院入所で親に捨てられたと邪推した負け犬根性が逆に、のちの梶原イズム=敗者の美学を生み出したとは言えまいか。
タイガーマスクのエンディングテーマ「みなし児のブルース」(作詞木谷梨男、作曲菊池俊輔)が今も耳に残る。
♫ あたたかい人の情けも 胸を打つ熱い涙も 知らないで そだったぼくは みなしごさ
強ければそれでいいんだ 力さえあればいいんだ ひねくれて星をにらんだ ぼくなのさ〜♫
あれほど哀調を帯びた歌が子供向けTV番組で流れた昭和という時代に、ある種の感動を覚える。

梶原一騎こと高森朝樹。昭和62年1月21日、壊死性劇症膵臓炎のため死去。享年50歳。人生十五番勝負のうち、残り五番を残して散っていった。はて、何勝何敗だったのか、、、







謹賀新年〜七草爪の日に〜

平成29年が明けた。酉年だけにケッコーな年にしたいとシャレている御仁もおられることだろう。4日から当院も外来を開き、“満員御礼”の三日間。そして本日は早くも7日。七草粥を食して、おせち料理とお屠蘇で疲れた胃を休め、一年の健康を祈る人日(じんじつ)の節句だ。

この日、薺(ナズナ)を浸した茶碗水に爪を漬けて切ると、その年を健康で過ごせるという伝統の風習がわが国にはある。「七草爪」(七日爪、菜爪) とは風流な命名だが、「爪」と聞いて思い浮かべるのは、やはり、あの女性のことだ。

向田邦子(1929ー1981) 。放送作家、エッセイスト、そして直木賞作家。テレビドラマ脚本で戦後の昭和を体現した人、と言っても良い。向田さんの代表作品のひとつ、『寺内貫太郎一家』にこんな場面がある。
東京・谷中の石材店を継ぐ主人公貫太郎の妻、里子役を演じる加藤治子が縁側を歩いていて「あ、痛っ」とつぶやく。かかとに誰かが切った爪片が刺さったのだ。「これはお父さんの爪ね。こんなに固いのは男の爪だわ」。
当初、この脚本にクレームがついた。高視聴率を誇った同番組の本筋とは関係ないエピソードだったからだ。しかし、向田さんは頑として修正を受入れなかった。些細な日常にこそ、真実が隠れていると信じていたからと、名コンビを組んだ演出家、久世光彦氏が述懐している。
別のエッセイで向田さんは、太平洋戦争当時の出来事を描いている。女学生時代、空襲警報がいつ来るかもしれない日々。校舎の渡り廊下にひかれたスノコに校長先生が 蹴つまずいて転び、周囲が爆笑のウズで囲まれたエピソード。等身大の視点から、正鵠を射た観察眼を向けた邦子。「戦時中にも笑いがあった。人々の生活があった」

日常のささやかな出来事。心の悩みだってすべてそこから湧き出てくる。今日も何十人の患者さんの口からついて出た「ぐち」を聴きながら、頭の片隅に、あのかかとに刺さった爪のことを思い浮かべていた。 
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