リオ五輪が閉幕し(パラリンピックはこれからだが)、暑かったこの夏も終わりを告げようとしている。
8月31日は「二百十日」。二十四節気の処暑に来る雑節で、立春から数えて210日目。農家にとって嵐の到来する三大厄日。今年は台風10号が日本列島の南海上を“左往右往”したのち、東北地方に初めて上陸した。
太平洋水域の異常高温、上空の寒冷渦や偏西風の影響など、前代未聞のコースに気象学的解説が付された。ニュースを観ていて思い浮かんだのが“逆コース”である。
逆コースとは、戦後アメリカGHQの占領支配下にあった日本で、共産主義圏への政治的要請から、再軍備にむけて展開した種々の復古的政策に対し使われた言葉。昭和26(1951)年、サンフランシスコ条約で連合国と講和締結した時の連載記事(読売新聞)がきっかけで流行った。
もう戦争はしないと憲法9条で誓い、人間宣言して全国巡幸した昭和天皇に象徴される戦後民主主義が、戦勝国の都合で方向転換し、防共防波堤の役を果たすことになる。
1950年勃発した朝鮮戦争では、米軍前線の後方支援地として、日本はその役割を担った。戦後貧困のただなかにあったわが国にとって、経済復興の起爆剤となったのが隣国の“政治の争い”だった現実。同じ年に自衛隊の前身となる警察予備隊が創設された。1952年の講和条約発効時には旧日米安全保障条約がセット締結され、西側陣営としての日本の位置づけが確定した。
精神医学にも逆コースに相当する病態がある。
「退行」Retrogression。
いわゆる“赤ちゃん返り”と呼ばれる行動。こころの自我防衛反応のひとつ。典型として、子供が、新たに弟妹ができたときにだだをこねたり、それまでできていたことができなくなったりする(尿・便失禁の再現や言葉の幼児化など)。
この時期に相応しい育ち方ができないと、大人になってから同様の行動が表れることがある。解離性障害では自覚なしに生活が分断し、知らぬ間にこどもに戻っていたりする。それが突き詰められると解離性同一性障害[多重人格]となることも。要は、悩んで葛藤する事も出来ぬほどこころが脆弱化してしまうということだ。
自覚的に限定された状況下であえて退行し、心のバランスを保つ場合もある。
たまたま聴いたラジオニュースによると、イギリスで今はやっているのが「わんわんごっこ」。ダルメシアンやセントバーナードなど犬種の着ぐるみを着て、犬の真似をする遊び。紳士の国のジェントルマンが四つんばいになって首輪につながれ、「ワンワン」(Bow Wow)と吠えて、日ごろのウップンをはらすそうな。
一方、アメリカでは最近、大人の赤ちゃんごっこが流行しているんだとか。いやはや。
ことしは夏目漱石没後百年だが、漱石に『二百十日』という小説がある。
圭さん碌さんの青年コンビが阿蘇登山に挑戦するときのやり取りを中心とした会話体の作品。ところどころ、ユーモラスな挿話を入れながら、明治社会の不公平さを摘発せんとする圭さんの訴えが主題だ。作品名は登ろうとした日が9月2日で、発表年(明治39年)の「二百十日」だった事から来る。案の定、二人は嵐[台風]に遭遇し、道に迷う。その時の描写がこうだ。
「二百十日の風と雨と煙りは満目の草を埋め尽くして、一丁先は靡(なび)く姿さえ判然と見えぬようになった。」
元豆腐屋の倅(せがれ)という設定の圭さんは、漱石自身がモデルとされる[実際に漱石は嵐の中、阿蘇山登頂を試みて断念している]。圭さんは少し昼行灯(あんどん)の気味のある碌さんに対し、血気盛んに言い放つ。
「社会の悪徳を公然道楽にしている奴らはどうしても叩きつけなければならん」
そして、最後にこう締めくくるのだ。
「我々が世の中に生活している第一の目的は、こういう文明の怪獣を打ち殺して、金も力もない、平民に幾分でも安慰を与えるのにあるだろう」
百年たっても、文豪の言葉は野分(のわき)の暴風のように、われわれの心中を激しく吹きすさぶ。平成の逆コースに「棹さす」のか、それとも、、、
8月31日は「二百十日」。二十四節気の処暑に来る雑節で、立春から数えて210日目。農家にとって嵐の到来する三大厄日。今年は台風10号が日本列島の南海上を“左往右往”したのち、東北地方に初めて上陸した。
太平洋水域の異常高温、上空の寒冷渦や偏西風の影響など、前代未聞のコースに気象学的解説が付された。ニュースを観ていて思い浮かんだのが“逆コース”である。
逆コースとは、戦後アメリカGHQの占領支配下にあった日本で、共産主義圏への政治的要請から、再軍備にむけて展開した種々の復古的政策に対し使われた言葉。昭和26(1951)年、サンフランシスコ条約で連合国と講和締結した時の連載記事(読売新聞)がきっかけで流行った。
もう戦争はしないと憲法9条で誓い、人間宣言して全国巡幸した昭和天皇に象徴される戦後民主主義が、戦勝国の都合で方向転換し、防共防波堤の役を果たすことになる。
1950年勃発した朝鮮戦争では、米軍前線の後方支援地として、日本はその役割を担った。戦後貧困のただなかにあったわが国にとって、経済復興の起爆剤となったのが隣国の“政治の争い”だった現実。同じ年に自衛隊の前身となる警察予備隊が創設された。1952年の講和条約発効時には旧日米安全保障条約がセット締結され、西側陣営としての日本の位置づけが確定した。
精神医学にも逆コースに相当する病態がある。
「退行」Retrogression。
いわゆる“赤ちゃん返り”と呼ばれる行動。こころの自我防衛反応のひとつ。典型として、子供が、新たに弟妹ができたときにだだをこねたり、それまでできていたことができなくなったりする(尿・便失禁の再現や言葉の幼児化など)。
この時期に相応しい育ち方ができないと、大人になってから同様の行動が表れることがある。解離性障害では自覚なしに生活が分断し、知らぬ間にこどもに戻っていたりする。それが突き詰められると解離性同一性障害[多重人格]となることも。要は、悩んで葛藤する事も出来ぬほどこころが脆弱化してしまうということだ。
自覚的に限定された状況下であえて退行し、心のバランスを保つ場合もある。
たまたま聴いたラジオニュースによると、イギリスで今はやっているのが「わんわんごっこ」。ダルメシアンやセントバーナードなど犬種の着ぐるみを着て、犬の真似をする遊び。紳士の国のジェントルマンが四つんばいになって首輪につながれ、「ワンワン」(Bow Wow)と吠えて、日ごろのウップンをはらすそうな。
一方、アメリカでは最近、大人の赤ちゃんごっこが流行しているんだとか。いやはや。
ことしは夏目漱石没後百年だが、漱石に『二百十日』という小説がある。
圭さん碌さんの青年コンビが阿蘇登山に挑戦するときのやり取りを中心とした会話体の作品。ところどころ、ユーモラスな挿話を入れながら、明治社会の不公平さを摘発せんとする圭さんの訴えが主題だ。作品名は登ろうとした日が9月2日で、発表年(明治39年)の「二百十日」だった事から来る。案の定、二人は嵐[台風]に遭遇し、道に迷う。その時の描写がこうだ。
「二百十日の風と雨と煙りは満目の草を埋め尽くして、一丁先は靡(なび)く姿さえ判然と見えぬようになった。」
元豆腐屋の倅(せがれ)という設定の圭さんは、漱石自身がモデルとされる[実際に漱石は嵐の中、阿蘇山登頂を試みて断念している]。圭さんは少し昼行灯(あんどん)の気味のある碌さんに対し、血気盛んに言い放つ。
「社会の悪徳を公然道楽にしている奴らはどうしても叩きつけなければならん」
そして、最後にこう締めくくるのだ。
「我々が世の中に生活している第一の目的は、こういう文明の怪獣を打ち殺して、金も力もない、平民に幾分でも安慰を与えるのにあるだろう」
百年たっても、文豪の言葉は野分(のわき)の暴風のように、われわれの心中を激しく吹きすさぶ。平成の逆コースに「棹さす」のか、それとも、、、