2016年06月

カブト虫の100時間、超人の3分間

「人間五十年、下天のうちをくらぶれば、夢幻のごとくなり」ーー今をさかのぼること456年、天下取りに向かう織田信長は、桶狭間の戦いを前に敦盛を舞った。
かたや現代。50年前の昭和41年6月30日夜、日本列島はブリティッシュロックの渦に飲み込まれた。いまやEU離脱で激震に揺れるイギリスからやって来たビートルズ(The Beatles)。日本武道館初の音楽コンサートを行った四人組が3日5回の公演で動員させた機動隊・警察官は延べ3万5千人にのぼり、地方から上京して、都内をたむろしていた少年少女約6千人が補導された。
台風通過後に特別機で来日した四人は、滞在わずか100時間で次の公演先に向かった。この歴史的4日間のショックについて、僕らより上の世代に説明は不要だろう。

僕自身、往時の記憶はない。白黒テレビが自宅にあったが、 観ていたのはもっぱらアニメ(テレビ漫画)だった。鉄腕アトムに鉄人28号、エイトマン。
なので、当時5歳の僕にとっての衝撃がビートルズ公演 半月後に始まったSF特撮番組『ウルトラマン』(TBS系列)だったのは、“当たり前田のクラッカー”だった。広辞苑第6版を引いても、ちゃんと載っている。なるほど、ビートルズ同様、ウルトラマンは立派な社会現象だったのだ。
この年流行った言葉が3C(カー、クーラー、カラーテレビの新三種の神器)。製薬会社名の連呼CMで始まる番組はカラー撮影で、まだ少数派だったカラーテレビ普及に一役買ったのだろう。

いまさらだが、解説を少し。
M78星雲・光の国の宇宙警備隊員ウルトラマン(以下マン)は、脱走した宇宙怪獣ベムラーを追って地球にやって来る。いっぽう、宇宙人らによる被害防止のため作られた科学特捜隊員のハヤタは、偵察機操縦中にマンとの衝突事故で命を落とす。
責任を感じたマンは自分の命を分け与え、ハヤタと一体となり、地球平和のために生きる決心をした。以後、科特隊が窮地に陥ると、ハヤタは制服のポケットからベーターカプセルを取り出し、マンに変身するのだ。シュワッチ!
何といっても見どころは、得意技スペシウム光線で怪獣たちをなぎ倒す場面だが、ここで書き落とせないお約束がある。敵の反撃で苦戦するマンの胸に光るカラータイマーが、バトル3分間に近づくと点滅することだ。
ピコん、ピコん、ピコん、ピコん、、、、
本稿執筆にあたり調べてみると、あのアイデアは予算のかかる戦闘場面を短くするためと、身もフタもない理由。ただ、ヒーローにも弱点のあったほうが子どもたちにウケるという発想もあったそうだ。〔うっほーい、そうこなくっちゃ。〕
単なる変身モノの特撮版ではなく、振り返ると素晴らしく社会性を帯びた内容満載であることが分かる。第23話では、宇宙飛行士が不時着惑星に取り残され、水分が取れずに怪獣ジャミラとなり、地球を襲うストーリーで、被害者が加害者になる不条理を描く。
ほかにも、村人から差別される雪ん子を助けるために現れながら、異形であるがゆえに観光に打撃を与え撃退対象となった雪女怪獣ウーの悲話。前後編に分けて放映され、大阪万博を見据えた怪獣殿下のゴモラ(名前由来は聖書から)など、記憶に残る名作が揃う。特撮に大変な手間が掛かるなどの理由で3クール終了となったが、いまだにウルトラマンシリーズとして平成まで続いている、、
〔いかん、いかん。このテの話題になると、筆が止まらなくなりそうダ〕。

信長のうたった「人間」はニンゲンではなく、ジンカン(世間、世の中)と読むのが正しい。下天という悠久の時間に比べ、我々の生きる時など流れに浮かぶうたかた(泡沫)に過ぎない。

ビートルズ来日から9年後、音楽の授業で歌と器楽を発表する課題が出た。僕が選んだのは、ビートルズの『Help』(英語で歌った)と、リコーダーで吹いた『帰ってきたウルトラマン』だった。
あれから40年以上が経つ。でも、あの音楽の授業風景はいまでもありありと思い出せる。〔黒縁眼鏡の市川先生、どうしておられるだろう〕。たとい先週の出来事は忘れてしまっても。

そうそう、ウルトラマンでハヤタ隊員が操縦していた隊機の名前は「ビートル」。カブト虫の音楽は78光年先まで残るだろうか。







 

父の日の桜桃忌

ことしの父の日(6月第三日曜)は19日。68年前の同じ日、山崎富栄と心中した太宰治の遺体が玉川上水で見つかった。この日は奇しくも太宰の39歳誕生日。同郷の作家、今官一は6月19日を「桜桃忌」と呼んだ。太宰の晩年の作品『桜桃』にちなんで付けられた“命日”。東京・三鷹の禅林寺には、太宰生前の願い通り、森鷗外の墓の斜向かいに太宰治が眠っている。(アーカイブ2014.6.19.「杏と桜桃」をお読みください)

* 子供より親が大事、と思いたい。子供のために、などと古風な道学者みたいなことを殊勝らしく考えてみても、何、子供よりも、その親のほうが弱いのだ。、、*

『桜桃』の冒頭文。もちろん、これは昨今のこども虐待の風潮とは無関係である。ムカンケイどころか、太宰一流のギャクセツ的表現であることは、太宰愛好家ならわかっていることだが、そこが気に入らない、ダザイはダサい、などと抜かす読者もいることだろう。
親と子の関係。これは家庭のモンダイと言い換えられる。家族とは何か?
前々回のブログでお伝えしたように、人と動物を隔てる一番のポイントは想像力だ。(2016.6.5.「おれ、ゴリラ。おれ、ヒトの仲間。」)。「今に生きる」すべての動物のなかで、ヒトだけが想像力で時空を超えた。その結果、生まれたのが「家族」だ。

霊長類学者でゴリラ研究の泰斗、山極壽一京大学長に『家族の起源 父性の登場』(東京大学出版会)という名著がある。山極氏は人類進化のストーリーを描くため、ゴリラやチンパンジーらの行動特性を観察し、分析考察した。その際基準としたのが「食」と「性」だった。
300万年以上前にアフリカの森林で生まれたヒトの祖先の食生活は、
①食物をその場で食べずに持ち帰る
②取り決めに従い食物を分配する
③食事が社会交渉としての機能をもつ
以上の3点で霊長類の食と決定的に異なっていた。

当時地球は寒冷・乾燥化時代に入っていた。草原に進出したヒトの祖先は、食糧源としてそれまでの果実に加え、根茎類をメニューに加える。掘り棒を携えて食材を探すために直立二足歩行を習熟させた。結果、女の骨盤は狭くなり、こどもを未熟児として産まざるを得なくなった。母親の負担が増え、食物を母子の元へ運ぶ必要が生じる。こうして性の分業(男は狩猟採集、女は育児など)、共食が始まり、家族が成立していった。
食の分配は人々の快の感情を刺激し、食事が親睦を深める社会性を帯び、性的な意味が加わっていった。〔いまでも使われる「食べちゃいたいほどかわいい」という表現を思い起こせばよい。一方で人肉食と近親婚のタブーが深層化される〕。
山極氏の記述で興味深いのは、食物を乞われる優位な個体が食物を独占することにある種の後ろめたさを示すことだ。ごく普通に考えて、能力的に強い方が弱者を従えるために食べ物を恵む図式が起源かと思いきや、さにあらず。チンパンジーでも劣位者が優位者にねだるほうが食物を得られる確率が高いことだった。
持てる者の葛藤、、、。

太宰治こと津島修治は、青森・津軽の名家、大地主の六男として生まれた。経済的には恵まれながら、乳母や女中に育てられた太宰にとって、父親になる、ということがどれほど大変だったのか、わかる気がする。

「生れて、すみません(二十世紀旗手)」「恥の多い生涯を送って来ました(人間失格)」

太宰名言の中でも特に知られるこれらの言葉。優位者、持てる者の葛藤を抱えた太宰は戦前のプロレタリア文学やキリスト教にも傾倒していった。優れた作品を残す一方で何度も自殺未遂を起こし、最後は知人女性と心中を遂げる、、、。彼は家庭をどう考えていたのか?
お笑い芸人で芥川賞受賞者の又吉直樹氏は、近著『夜を乗り越える』(小学館よしもと新書)でこう書いている。

*太宰は優しすぎたのだと思っています。――僕もおつき合いしている人がいる時は四六時中ずっと一緒にいたい――でも、友達に誘われたら行ってしまう――「彼女といるから」という理由で友達の誘いを断るという選択肢が僕にはない――最終的には彼女や、家族が戻る場所だと思っているからです。だから、家族が一番犠牲になります。――同じような感情が爆発しているのが、太宰の『桜桃』――*

『桜桃』の主人公の父親は妻と口論になる。いつもは笑いで切り抜けるのが、この日は妻の「涙の谷」という言葉に詰まり、黙って酒場に出て行ってしまう。そこで出されたのがサクランボ。子供たちの見たことのない桜桃を持ち帰ったら、どんなに喜ぶか。しかし、それができない。結局、父がやったことと言えば、極めてまずそうに桜桃を食べては種を吐くことだった。
こんな父(=太宰)を「弱い」と非難することはできる。だが、又吉氏はこうも書くのだ。

*弱いってそもそもいけないのかとも思うんです。――強くなれ、というその言葉で人は傷つきます。*

太宰が桜桃の種を吐きながら、300万年前の先祖さま「ルーシー」に想いを馳せていた、という光景を想像してみるのもわるくない。



 








 

雨、アメ、降れ、フレー

6月11日はこよみの雑節にいう入梅(にゅうばい)。ことしは平年より早い梅雨入りだったが、この日に合わせて定められたのが「傘の日」。すぐに口をついて出るのは童謡『あめふり』か。北原白秋の詞 ♪ あめあめふれふれ かあさんが じゃのめでおむかえ うれしいな ♪ の「蛇の目」が子供のころはピンと来なかったのを覚えている。きょうのお題は“傘”。

傘に関する歌で、僕と同世代の人たちが思い出すのは、むしろ井上陽水の『傘がない』ではないか。多感な思春期に聴いたせいか、出だしのフレーズは唐突かつ斬新な響きだった。
♪ 都会では 自殺する 若者が 増えている  今朝来た 新聞の 片隅に 書いていた ♪ 
ゆっくりと文節ごとに抑揚をつける歌い回しが耳に残る。そして、起承転結の承を省いて、いきなり転じるのだ。
♪ だけども 問題は 今日の雨 傘がない ♪ 
問題を「もんだーいぃわぁ」と節をつけて、これもいきなり問題が転換する。
♪ 行かなくちゃ きみに逢いに行かなくちゃ きみの町に行かなくちゃ 雨にぬれ ♪
いわば問題が、若者の自殺という“公”から恋人との逢引という“私”まで一気に極小化される。いまならGoogleマップをクリックしたときに味わう感覚、とでも形容すればよいだろうか。

ときは44年後の平成28年。アメリカ大統領選はとんでもないことになりそうである。民主党が初の女性大統領を目指すヒラリー・クリントンなら、共和党は過激発言で物議をかもす実業家、ドナルド・トランプとくる。どちらも世論調査で好意より嫌悪感がまさるが、特にトランプ氏が当選するとどうなるのだろう。
もちろん、あのほら吹きは選挙作戦という面もあるにせよ、彼の思想には正直、まったくなじめない。日米関係にも一大変化の起きることは必定、日本は核武装せよという事態になるやもしれぬ。〔ちなみに、トランプとは英語で切り札という意味。日本語のトランプは、英語ではカード〕。
“核の傘理論”の当否はさておき、そういう考え方のある事実は認めねばならない。戦後日本の経済的繁栄はたしかに、自由陣営の盟友として、アメリカの核を含めた軍事戦略の上(下?)に成り立ってきた。
ここで思い起こす歌が森進一の『おふくろさん』だ。
♪ ~おまえも いつかは 世の中の 傘になれよと 教えてくれた あなたの あなたの 真実~ ♪
アメリカ合衆国という“傘”は、今後どう変わっていくのか?〔バーニー・サンダースが健闘したのだから、アメリカ人も捨てたもんじゃないと思いたい〕

陽水になぞらえれば、だけども問題は、きょうの一宮むすび心療内科の診療をしなくちゃ、ということだ。
雨が降れば、頭痛はするわ、いらいらするわ、という患者さんは多い。願わくば、彼ら/彼女らには、梅雨の長雨が続こうともにっこり笑えるまで回復してほしい。そのために院長おすすめの“ことばのクスリ”がある。
ノンフィクションライター沢木耕太郎著『彼らの流儀』(新潮文庫)。その中の一編『あめ、あめ、ふれ、ふれ』が処方箋だ。
『あめ』は、一人でデパートに店を出す傘屋の話だ。わずか5頁のあらすじをひとことでいうと、偶然という神を味方につける素直さ、粘り強さ、そして感謝の心を持つさわやかな男との会話。それを象徴する最後の場面を紹介する。

* 「僕は傘屋で幸せです。雨が降れば嬉しいし、晴れ上がれば気持がいいし、どんな天気でも楽しく過ごせますから」
私は笑って相槌を打つ。
「幸せだね」  *



おれ、ゴリラ。おれ、ヒトの仲間。

米国オハイオ州の動物園で先月末、3歳男児がゴリラ舎に転落し、17歳のニシローランドゴリラがこども救出のために射殺された。この対応に両親の管理責任を求める署名が30万人に達し、動物愛護団体は動物園に罰金を要求するなど波紋が広がっている。
僕は思うのだ。撃たれたのがシロサイだったら、どうなっただろう。あるいはコモドオオトカゲだったら、、、。ここはやはり、霊長類であるゴリラだったことが問題を大きくしたのだと思わざるを得ない。
そう考えていたおり、参加した日本精神神経学会学術総会で、京都大学霊長類研究所・松沢哲郎教授の特別講演があった。きょうはその話を紹介する。ゼッタイ面白いので、最後まで読んでクダサイ。

西田哲学を求めて京大文学部に入った松沢先生はその後、霊長類学に取り憑かれた。そして両者から生まれたのが、先生の考え出した学問、比較認知科学だ。その原点は「人間とは何か?」の追求にあった。
「日本を知ろうと思ったら外国に行けばよい。ならば、人間を知るには他の霊長類と比べてみればよいのです」。
1986年から毎年、先生は西アフリカのギニア・ボッソウで野生のチンパンジーを観察し続けてきた。熱帯ジャングルで、石を使って種を割るチンパンジーを見ると、左利き。彼らにも利き手は生まれつき決まっていることを確認した。
野外研究の一方、愛知県犬山市の京大霊長研でもチンパンジーの群れを飼育し、彼らの知性を研究してきた。言葉を理解する”天才”アイ(37歳)のプロジェクトはつとに有名だ。
講演で先生は、人間の特徴として3つのキーワードを挙げた。
① 直立二足歩行の起源
普通はこう考える。(なんらかの事情で)直立した人類は余った前足を手として使い、道具を駆使し、脳を刺激してさらに進化したと。〔僕もそう思っていた〕。だが、違うのだ。
哺乳類の4分の1を占めるコウモリは前脚を翼に進化させた。海に進出したイルカの前脚はヒレと化した。そして、森の樹上に生活の場を求めたサルの祖先は、、、そう、木の枝をつかむには足ではだめなのだ。私たちのご先祖さまは四本足を”四本手”に進化させた。その証拠にサルの足を見てみよう。親指と他の四指が手のように対向して物をつかめる構造になっている。
つまり、四本の手で樹上生活に適応したサルのうち、地上に降りたヒトの先祖が必要に迫られて二足歩行になったのだ。いわれてみればナルホドだけど、これはコロンブスの卵級の卓見ではないか!〔ちなみに直立は霊長類共通の特長〕。
② あおむけ姿勢
直立姿勢と違って、これは人間だけに固有の姿勢だ。ためしにチンパンジーをあおむけにすると、右手と左足(または左手と右足)が同時に拳上する。これは樹上で母親にしがみつくための本能的反射だ〔しがみつけなければ墜落してしまう〕。地上に降りてしまえば、その心配はない。
結果、ヒトの母と子は見つめ合うことができ、他の霊長類より離れた親子の距離を埋めるために「声」を使うようになった。赤ちゃんの泣き笑いは自分に関心を向ける戦略のひとつだ。空いた両手で物を扱うこともできるようになった。〔なんだか、アリス・堀内孝雄のヒット曲『君の瞳は10000ボルト』を思い出した。♪~地上に降りた 最後の 天使~♪〕
③ 想像するちから
そして、これこそがヒトと他の霊長類を隔てる最大の特長と先生は言う。
チンパンジーは落書きが好きだ。サルの顔の絵を見せると、持っていたマジックで目と口のあたりをぐるぐる書きなぐる。ところが顔の輪郭しかない絵を見せるとどうなるか?――顔の輪郭をなぞるだけだ。
これに対し、ヒトの3歳半児に同じ輪郭だけの絵を見せてみよう。必ず、目と口を書き足すのだ。
つまり、チンパンジーは「いま・ここ」にあるものだけを見る。ヒトはその時間と空間を超える事ができる。それが想像力。
「人間は想像するちからがあるからこそ、絶望もするが希望を持つこともできる」
「チンパンジーは、苗を植えない」

さて、ニシローランドゴリラの「ハランべ」君の最期について。
おそらく、彼は男児をいたぶるつもりはこれっぽっちも持たなかったに違いない。檻の中で過ごす日々が満足であればよかった。そこに降ってわいたヒトのこども。ただ、そこにいるストレンジャーに興味が向いただけだ。ハランべ君に想像力があれば、男児から距離を置いただろう。戯れを脅かし、乱暴ととられ、ニンゲンから撃たれるかもしれぬ、、、。彼は、何も知らずに死んでいったのだ。

京大霊長研では13頭のチンパンジーを飼っている。いや、違う。松沢先生は論理的に教えてくれる。生物の分類上、ヒト科に属するのは人間だけでなく、4種います。ヒト、チンパンジー、ゴリラ、オランウータン。彼らの遺伝子の約98%はヒトと同じなのですと。
だから、彼らと一緒に暮らす先生たちはこう数える。「13人の仲間と一緒に暮らしています」。
ハランべ君に合掌。
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