2015年09月

幸福という名のスクリューボール

プロ野球中日ドラゴンズの山本昌広投手(50歳)が今季限りでの引退を表明した。数々の球界最年長記録を更新してきた二百勝投手が下した決断。われら”中年の星”が出したコメントのキーワードは”感謝と幸せ”だった。
「最後のシーズンで勝てなかったのは残念だったが、今はさっぱりしている。野球選手として本当に幸せな人生を送れた。監督、コーチ、チームメート、裏方の皆さん、そして両親に本当に感謝している。人情味のある名古屋という土地だからこそ、ここまでできた。」(9月26日中日新聞1面)

引退記事の裏面に特集記事が載っていた。安保関連法が成立して「戦争のできる普通の国」に向けて始動した安倍首相が打ち出した”新三本の矢”。出生率1.8を掲げた子育て支援に介護離職ゼロを目指した社会保障と、見てくれはよい。中でもいちばん強調するのが国内総生産(GDP)600兆円の2020年度達成だ。
GDP(Gross Domestic Product)とは、1年間で新たに生産した財・サービスの総額から海外からの純所得を差し引いたもので、経済活動の代名詞になっている。日本のGDPはアメリカ合衆国、中国に次いで世界3位。ただし、国民一人当たりに直すと同26位(2014年)に落ちる。
国の豊かさを経済指標のみで計ろうとする考えに対しノーを突きつけたのがブータン王国だった。
ヒマラヤ山脈東部に位置する人口69万人の小国。1972年に当時の国王が提唱したのが国民総幸福量(GNH:Gross  National Hapiness) である。
GNHは72項目の指標を9つに分けて評価する。1.心理的幸福 2.健康 3.教育 4.文化 5.環境 6.コミュニティー 7.良い統治 8.生活水準 9.自分の時間の使い方
1.の心理的幸福の測定には、寛容、慈愛、怒り、ねたみなどの感情の頻度を数値化して地図上に示すという。
ブータン国立研究所のカルマ・ウラ所長はこう述べている。
「医療が高度な国、消費や所得が多い国の人々は本当に幸せだろうか。先進国でうつ病に悩む人が多いのはなぜか」

三木清(1897-1945)という哲学者をご存知か?京大の西田幾多郎門下で、独自の道を歩み、パスカル研究などで知られる。戦時下、無実の罪で特高に逮捕され、終戦直後に拘置所内で病死した。食事に硝子玉を混ぜられ、衰弱死したともいわれる。
彼の著書『人生論ノート』(新潮文庫)と高校1年で出会い、目からうろこの落ちる思いをした。その中の一節に「幸福について」がある。このコラム読者には直接原文に触れていただきたいが、文章の一端を紹介する。
*幸福を語ることがすでに何か不道徳であるかのように感じられるほど今の世の中は不幸に充ちているのではあるまいか
*幸福論を抹殺した倫理は、一見いかに論理的であるにしても、その内実において虚無主義にほかならぬ
*幸福を単に感性的なものと考えることは間違っている
*生と同じく幸福が想像であるということは、個性が幸福であることを意味している
*機嫌がよいこと、丁寧なこと、親切なこと、寛大なこと、等々、幸福はつねに外に現れる、、、鳥の歌うが如くおのずから外に現れて他の人を幸福にするものが真の幸福である

マサこと山本投手の「野球選手として幸せな人生を送れた」というコメントがいかに多くの人たちに幸福をもたらすか。一流投手としては球速の出ないマサは米国留学でスクリューボールを会得し、頑健な体でドラゴンズ一筋32年間を生きた。その結果の「幸せ」発言であることを思うと、感謝の念でいっぱいである。引退表明が報道された日は、奇しくも三木清の命日だった。




信は力なり~ラグビー南ア戦勝利の意味~

ラグビー第8回ワールドカップ(W杯)の一次リーグ初戦で、日本が南アフリカに歴史的勝利を遂げた。過去7大会の通算成績1勝2分け21敗の日本が、W杯2度優勝歴のある世界ランク3位の南アを34対32で破ったのだ。公式サイトで「史上最大の番狂わせ」と呼ばれた試合から得られる教訓とは何か――。

このコラムはスポーツ欄ではないし、ラグビーは高校の授業でやった程度の僕が技術面で語れることはほとんどないが、、、。
テレビでは、34点中24点を叩き出したフルバック(FB)五郎丸選手の繰り出す正確無比なペナルティゴール(PG)を繰り返し映し出していた。両手を印の字に結び、前かがみになる独特の姿勢は外国選手の仕草を基に編み出したというが、野球好きの僕には、あのイチローが打席で弓を張る仕草と同質のものに思えた。

ここ一番、集中が必要な時に”いつものやり方”を頑なに守ることは、精神医学的に意味がある。
動物の中で人間だけが自覚的な時間感覚を身に着けた。(ほかの生物にも本能としての”時計”が備わっていることはまた別の機会に論じる)。そこから展開したのが歴史といってよい。過去・現在・未来と続く時間の矢を想像することから共同体社会が形成されていく。
別の見方でいえば、常に先を見据える必要があるので「不安」も生じる。動物にあるのは「恐怖」であり、不安、とくに潜在的不安を感じるのは人間だけだ。だから、いざという時に震えたり、いつもの実力を発揮できない。その時に頼りになるのは安定したこころ、平常心だろう。その心をコントロールするときに大事なのが体のコントロールである。
体を脳、と置き換えて読んでほしい。古来、伝統芸能や職人の仕事で肝要なのが手順だ。繰り返し脳に叩き込むことで、不安が消え、能力を最大限に発揮できる。FB五郎丸の活躍の秘訣は、そこにある。
なので、不安に悩む患者さんに「朝、同じ時間に起きて太陽を浴びなさい」と話すのはそういう理由があることを知っておいてほしい。

もうひとつ、ラグビーで記しておきたいことがある。サッカーと共通の起源を持つラグビーだが、ボールを前に投げることは許されないルールが特長だ。つねに攻撃の最前線に立つ主役は、落とすとどちらに転がるかわからない紡錘形のボールなのだ。パスする相手を信じ、そのボールの行先を信じるところから、道は開ける。

大西鐡之佑(1916-1995)の名前はラグビー人なら誰でも知っている。元早大教授でラグビー日本代表監督。
僕が大学2年のとき3度目の早大監督に就任し、下馬評を覆して早明戦に勝利、「荒ぶる」早稲田を復活させた。大西先生は力の戦いであるラグビーに「接近・連続・展開」理論を取り入れ、知性の力を強調した監督だったが、いっぽうで情の深い人でもあった。
彼の名言にこうある。「信は力なり」。そう思うと、五郎丸選手のポーズが、やはり”祈り”だったことが深くうなずけるのだ。

百の恵み

百歳以上の高齢者は過去最多の6万人を超えたことが厚労省の調べで分かった。うち、女性が87.3%。最高齢女性は1900 年生まれの115歳。つまり3つの世紀にわたって人生を送ってきたことになる。”Life is short, art is long" が過去のことわざとなった日本。昨年4月の開業以来、この院長ブログも100回目。そこできょうは”百”にまつわるお話。

「きんはヒャクサイ、ぎんもヒャクサイ」――長寿者といえば名古屋の双子姉妹、成田きん・蟹江ぎんさん(1892年生まれ)が思い浮かぶ。それぞれ、107、108歳までを生きた。子や孫たちにも長寿者がそろい、寿命はある程度遺伝子に左右されることがわかる。
興味深いのは、マスメディアに注目される前のお二人は「痴呆」とされていたことだ。(当時はまだ認知症という表現はなかった)。総白髪だった姉妹がテレビに出るたびに黒髪が増えていったという。全国を取材旅行で回るために筋力トレーニングを積んだ結果、記憶力の改善したことが確認されている。
21世紀の今、高齢者の健康には「肉を食べて、筋トレしましょう」というのが常識になりつつある。アルブミンという血液のタンパクを反映した数値から、床に臥せるお年寄りの予後がわかるといわれる。
きんさんぎんさんで記憶に残っているのが、100歳を超えて初めて確定申告したときに「稼いだお金はどうしますか」と聞かれて「”老後”の蓄えにしときます」と答え、周囲を笑わせたエピソードだ。”笑い”が癒しのカギになることは、繰り返し述べてきた心身医学の黄金則だが、長寿にもつなるのだなあと改めて思う。

かたや、この女性は現在56歳。1970年代の日本を代表する歌手、女優。――山口百恵(やまぐち・ももえ)
最近、彼女に関する本が出版された。『山口百恵は菩薩である 完全版』(講談社)。今は故人の平岡正明が36年前に刊行した同名書を底本とし、それ以後の百恵関連文を四方田犬彦が追加編集した430頁の大著だ。当時、読みたいと思いながら読めずにいたので、今回さっそく購入して読んだ。
彼女の生い立ちは、わずか7年半で芸能界を引退し、映画共演で恋仲となった三浦友和と結婚したときに出した自伝『蒼い時』に詳しい。私生児として生まれ、認知されたが父親はときどき「来る」おじさんだった。生活保護を受け暮らしてきた母と妹を助けるために芸能界入りを志す。
「スター誕生」で歌手デビュー、文字通りスターの階段を登り始めた。有名になったとたん、父親が百恵にすり寄ってきた。彼女の名前を利用する行為に出た。同書の冒頭「出生」の章で、彼女はこう書く。「金銭で血縁を切る。、、そのことに対して私は、いささかの後悔もしていない。」
その一方で百恵はこうも記すのだ。喫茶店で紅茶を飲んで立ち上がる瞬間、ティーカップの底に飲み残しの一口を見た。「これは、あの人の癖だった。、、カップの底に残された一滴の液体が、あの人と私の間を流れる縁の薄い血のような気がし」たと。
平岡は『百恵は菩薩』のなかで、戦後歌謡界を代表する歌手として、美空ひばりと山口百恵を挙げている。「足の太い、沈んだ目」をした少女のどこに、そのエネルギーを感じたのか。ジャズ評論の達人でもある平岡は、宇崎竜童・阿木燿子コンビと組んだことで百恵の才能が開花したという。最初の提供曲は『横須賀ストーリー』(阿木作詞・宇崎作曲1976)。周囲に引かれた”青い性”路線をひた走ってきた百恵が初めて、自分の意思で歌の作り手を選んだ。
当時『港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ』などでツッパリ路線全盛だった宇崎は著書でこう書いた。「思い入れがあった。横須賀で育ったという共感、、、影を引きずっている、、薄幸で可哀そう、なんとかしてやりたい・・・不思議な魅力だった」。
菩薩は、仏になる途上の修行者のこと。では、平岡の言う「菩薩」とはなんだろう?確かに、百恵ちゃんの歌は、当時のティーンエイジャーの心を掴んだ。
真っ赤なポルシェを気ままに運転し、交差点でミラーをこすったと怒鳴る男に「♪馬鹿にしないでよ そっちのせいよ♪」と歌うそのトーンが物悲しくて、背後の物語を想像させた。

歌は世につれ、世は歌につれ、という真実をJ-POP時代の若者が理解できるか?歌が心の治療の砦(とりで)になることを確信する者として、山口百恵の歌を口ずさみながら、考える。そして、やっぱりこう想うのだ。
山口百恵は昭和の菩薩だったのだと。そして、祈り・笑い・歌う(い・わ・う=祝う)ことが、”治り”に繋がることをーー。

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