台所の蛇口をひねると、水でなくお湯が出た日曜日、ある絵画展を観に行った。
「画家たちと戦争:彼らはいかにして生きぬいたのか」展(名古屋市美術館・中日新聞社主催)。
太平洋戦争の時代を生きた洋画家・日本画家・彫刻家14名の作品群を戦前から戦後まで時系列に展示することで、彼らがいかに戦争と向き合っていったのかを問いかける、戦後70年企画物の展覧会。その報告が本日の内容。

入口で110点余の出品リストとメモ用鉛筆(館内ボールペン禁止)を借り、冷房の程よく効いた館内に入った途端、嗚咽(おえつ)が聞こえた。
観覧していた40歳位の男性が掌を口に当てている。彼が見つめていたのは最初の展示画家、北脇昇(1901~1951)の『クォ・ヴァディス』(1949)。ラテン語で「何処に行くのか?」という意味。新約聖書でペトロがキリストに問いかけた言葉で、ポーランドのノーベル賞作家がローマ皇帝ネロ時代の迫害をテーマに同名の小説を書いている。北脇はこの小説から作品を構想したという(同展解説書より)。
91X117㎝のキャンバスに描かれた油彩画。しわくちゃの背広上下に帽子を被った男がひとり、後ろ姿でへっぴり腰に立つ。右肩でずた袋を背負い、左小脇に本を抱えている。足元には男の肩幅もある大きな蝸牛と、二輪の薔薇の咲く道標。男の見つめる左手には赤旗を立てて行進する民衆の隊列、右手遥かには暗雲垂れ込め驟(しゅう)雨に煙る街並み。おそらく空襲後に廃墟と化した日本を表している。
この絵のどこが嗚咽の男性の琴線に触れたのだろう? 腑(ふ)に落ちぬまま、順路を進んだ。

三番目の展示は日本画壇の重鎮、横山大観(1868~1958)。”富士山画家”の名の通り、出品作10点はすべて霊峰ばかり。ツルが並び飛ぶ『霊峰飛鶴』(1953)はむかし、記念切手をもっていたのですぐ目についた。小学6年のとき、図画の授業でタペストリーの題材として富士山に零戦を描いた記憶が瞬時によみがえった。第1回文化勲章受章者の大観は皇室にも絵を献上し、戦後GHQから戦犯容疑で取り調べを受けた。

その次が今回お目当てだった松本竣介(1912~1948)。チケットにも使われている代表作『立てる像』が描かれた1942年は太平洋戦争開戦半年で戦局の転回点となったミッドウェー海戦敗北の夏。
162X130㎝のキャンバスの縦8割を使った自画像。薄暮の閑散とした街角にひとり、遠方を見つめる作者。金ボタンの光る焦げ茶の作業着に身を包み、サンダルの素足にも左手にも力がこもっているのがわかる。ただ大きめに描かれた右手のみが、何かを掴もうと指を軽く曲げ、待っているように見える。
この年は美術界も戦争に深く巻き込まれていった。第1回大東亜戦争美術展が開かれ、従軍画家たちに描かれた戦争記録画が展示される。国家総動員で戦争の深みにはまっていった。
解説書によると、岩手生まれの松本は幼少時、病気で聴覚を失い、画家を志して上京、街で生きる人々に魅せられ描き始めた。1938年作の『街』では青を基調として遠景から見た街並みに赤のショールを羽織ったモガ(モダンガール)ら人々がうまく配置され、幻想的な雰囲気はシャガールを連想させる。(アーカイブ2014.6.15『しのぶれど 色に出でにけり わがこころ』をご参照)
新聞社時代の先輩記者が絶賛していて知ったのが松本竣介だったが、36年の人生は短すぎた。戦後日本の回復、その後の発展、そしていまの困難を、彼が生きていたら何というだろう。

お知らせ:当欄で紹介(アーカイブ2015.1.29『いっぷくしようよ』)したダウン症候群の木村忠嗣さんが今週個展を開きます。今回は陶芸作品も交えての展示。ぜひお立ち寄りください。[8月4日(火)~9日(日)。一宮市浅野字駒寄12-3ギャラリー葵(電話0586-76-8511)]