2015年08月

Stand by You~夏の終わりに~

夏が終わろうとしている――8月25日、群馬のJR上越線で中学男子が電車に轢かれ死亡した。始業式の朝だった。翌26日、新潟のマンションから高1女子が転落。いずれも自殺とみられている。東京・青梅市の多摩川でも25日、中1男子が橋から落ちて亡くなっている。2学期の始まる前々日だった。

内閣府が若者の自殺者を日付ごとに分析して公表した。18歳以下の自殺者数は過去42年間で1万8千人余。最多は9月1日の131人で、以下4月11日、4月8日、9月2日、8月31日と続く。新学期の始まる前後に集中していることがわかる。特に長期の夏休み明けは子どもたちにとって”鬼門”になっている。
当院でもこの時期は中高生の受診が目立つ。不登校の「病名」のつく患者さんにどう対応していくのか。悩みは尽きない。

真名美泡酢君(17歳)は、高2の夏、当院にやってきた。主訴は「学校に行けないのがつらい」(行きたいのだが行けない)。
中学2年の夏休み明け、不登校になったのが始まりだった。「人間関係のトラブル」としか教えてくれなかったが、クラスでのいじめ経験が言葉の端々から伝わる。朝になると体がだるく、月曜は特にひどい。両親は共働きで、5歳上の兄は関西の大学に下宿しているので、昼間はひとり。自然と生活リズムは乱れ、昼夜逆転パタンになる。そのときは不登校支援センターに相談し、秋から出られるようになった。
今回は自分でも理由がよくわからない。部活の剣道は土日も稽古で、やすみは月に一回。それに疲れたのか?母から「お願いだから学校に行って」と泣かれるとつらい。申し訳ないとも思う。でも体は家に留まろうとする。
診察を繰り返した後、抗うつ薬を敢えて処方した。一定の効果はあるが、それですべて解決するわけはない。カウンセリングを予約したが午前だったためか来院できず、不安定なまま2学期を迎えることになった。

彼のような生徒がほかに何人も受診しに訪れる。おおかた、まじめで要領が悪く、対人関係は不器用だ。診察で僕はこう言う。「それは君のいいところでもある。周りに無理に合わせなくてもいいよ」。
学びの場が「合わず」となったときの逃げ場が必要だ。泡酢君が利用した不登校支援センターなど、体制としてはかつてより整ってきているが、何かが足りない。それは譬(たと)えて言えば、よく練れた讃岐うどんのような(家族を含めた)共同体のしなやかさ、復元力だろう。そのおおもとが、自然と接する機会の減っている生活とおもえる。

『Stand by Me』 (1986 ロブ・ライナー監督) というアメリカ映画をご覧の方も多かろう。
1950年代、オレゴン州の片田舎で、こころに傷を持つ4人の少年が死体探しの旅に出るひと夏の冒険譚(たん)。鉄道線路沿いに30㎞先の森まで歩く4人に待ち伏せる難関。性格の違う4人がそれぞれに助け合い、成長していく姿は、甘酸っぱい少年時代の記憶を呼び起こす。映画の最後で語り手の主人公はこう呟(つぶや)く。「僕は12歳の時に出会ったあの4人のような友達をあれ以来、持ったことがない。」

不登校を救うのは、薬でも学校でもなく、あの悪ガキ4人のような、自然と渾然一体となった”友”、ではないか。




線香花火がスパークした

第153回芥川賞受賞作『火花』を読んだ。お笑いコンビ「ピース」のボケ役、又吉直樹(35歳)の著作ということで話題を呼び、同賞史上最多の230万部が売れた。ベストセラーを読まない習性の僕としては、早々と読了したのには理由(わけ)がある。その一端が示せればと思い、筆を執った。

「大地を震わす和太鼓の律動に、甲高く鋭い笛の音が重なり響いていた。熱海湾に面した沿道は白昼の激しい陽射しの名残りを夜気で溶かし、浴衣姿の男女や家族連れの草履に踏ませながら賑わっている。沿道の脇にある小さな空間に、裏返しにされた黄色いビールケースがいくつか並べられ、その上にベニヤ板を数枚重ねただけの簡易な舞台の上で、僕たちは花火大会の会場を目指し歩いて行く人達に向けて漫才を披露していた。」(冒頭より抜粋)

はたちの主人公徳永は漫才コンビ『スパークス』を結成し、花火大会の余興で持ちネタを披露する。だが、客に見向きもされぬコンビの声は途方もなく小さく、「聞こうとする人の耳にしか届かない」。徳永は圧倒的な疎外感を感じた。
スパークスのあと番が、コンビ『あほんだら』だった。虎の絵が描かれた黒アロハシャツにリーバイスジーンズ姿ののっぽが徳永に、(客に無視された)「仇(かたき)をとったるわ」と言い、ネタを始めるやいなや、通行人を睨みつけながら容赦なくゆび指し、「地獄、地獄、、あんたらちゃんとし」と女言葉で叫んでいたが、急にゆび指しを止めた。そこには母親に手を引かれた幼女がいたからだ。次の瞬間、満面の笑みを浮かべ、「楽しい地獄、お嬢ちゃん、ごめんね」と囁(ささや)いた。
その場面を見た徳永は天啓を受けた信者に変じた。「この人こそが真実」と弟子入りを決心した。
こうして、4歳年上の究極の天然派芸人神谷才蔵との師弟関係が成立した。条件は神谷の伝記を徳永が作ることだ。
『火花』は売れる漫才師となるために、常識を打ち破ろうとしながら葛藤に悩む徳永と、本当の漫才師は「野菜を売ってても漫才師やねん」と言い放つ師匠神谷との切磋琢磨を描いた正統派青春小説といえる。神谷は大阪から上京して交際相手と暮らし、借金で逃避行しても天衣無縫ぶりに変わりはない。そこに徳永は自分にない魅力を見出し、反発しつつも連れ添う。そうした日常の日々が章立てや小見出しなく、単行本148頁にわたって綴られる。

大阪生まれの又吉は、その風貌や名字からわかるとおり、父が沖縄、母が奄美の出身だ。週刊誌によると、体育のできる忘れ物の多いやんちゃな子供だったが(この辺りADHD的)、国語にだけはこだわりがあり、中2の教科書で芥川の『トロッコ』に感銘を受け、太宰の『人間失格』を読んで以来、”太宰教”信者で、読書歴は2000冊を超える。
太宰・芥川は僕の読書の”原点”でもある。なので、冒頭一番大事な徳永と神谷の邂逅場面でも、その影響がもろに出ていることがわかる。芥川は著書『侏儒の言葉』で書くとおり、こどもにだけは自らの持つ根源的不安・懐疑的人生観から逃れることができた。また、太宰が持っていた道化への憧憬は、ほとんどストレートに又吉の人生そのものとしてトレースされている。彼が三鷹で住んだ家賃5万円のアパートが太宰の住居跡だったのは、偶然では説明できない因縁を示唆している。

繰り返し書いているように、歌、祈りとともに笑いは、こころの病を治すうえでの”三種の神器”というのが僕の持論だ。お笑い芸人としてもピース又吉の独特な雰囲気は注目してきた。
又吉がピース以前に組んでいたお笑いコンビの名前は「線香花火」。その導火線に火が付き、大尺玉がスパーク(火花)した。

70年前、戦争があった

「人生七十古来稀なり」ーー太平洋戦争の体験者が稀(まれ)な時代になった。先ごろの世論調査で広島・長崎の原爆投下日を知らない日本人が7割に上ることを知り、愕然とした。このぶんなら、日本がアメリカなど連合国と戦争をして敗けた事実を知らぬ若者もいることだろう。きょう8月15日は70年目の「終戦の日」。

映画『日本のいちばん長い日』(原田眞人監督)を観た。
昭和16(1941)年12月8日の真珠湾攻撃で始まった太平洋戦争末期。昭和20年4月、鈴木貫太郎は総理大臣を拝命した。それから、8月15日の玉音放送までの4か月のあいだ、戦争終結に向けて心を砕く鈴木首相と、表面上は徹底抗戦を訴える阿南惟幾(あなみ これちか)陸軍大臣を中心とした人間模様が、昭和天皇をめぐる関係として描かれる。
慶応3(1867)年、明治維新前年に生まれた鈴木は海軍入隊後日露戦争に勝利。軍令部長になったのち、昭和4年から8年間侍従長を務め、二・二六事件で重傷を負うが一命を取り留めた。妻は天皇幼少時の養育係。鈴木はいわば昭和天皇の”父親”だ。孔子でなく、老子を好んで読んだ。
いっぽう明治20年(1887)生まれの阿南は陸軍に進んだのち、同じく昭和4年から4年間、侍従武官として昭和天皇に仕えた。天皇より14歳年長の阿南は鈴木の人格に感銘を受け、その心持ちは終生変わらなかったという。
満州事変、日中戦争から太平洋戦争に突入し、サイパン陥落から硫黄島玉砕、沖縄戦と敗色が決定的となっても、陸軍は本土決戦を唱え続けた。大本営からは日本軍に都合のよい情報しか国民に知らされなかった。そればかりか、天皇にすら戦闘被害を矮小化して上奏していたことが明らかになっている。
この戦況下、陸軍の暴走を統制して和平に持ち込むために鈴木が名指ししたのが阿南だったのだ。昭和天皇は親しみを込めて阿南のことを「あなん」と呼んだ。

この映画は昭和42年、文藝春秋編集者だった半藤一利氏が当事者からの取材をもとに書き起こした同名ノンフィクションを映画化した同名作(岡本喜八監督)が下敷きになっている。
題名の”いちばん長い日”とは、8月14日の御前会議で天皇が聖断をしてポツダム宣言受諾してから、翌15日正午、天皇の肉声録音による無条件降伏受け入れ放送までの24時間を指してつけられたものだ。この間に皇居(宮城=きゅうじょう)とNHKで起きた陸軍将校らによるクーデター未遂事件が、映画後半のハイライトだ。玉音放送の録音レコードを守った徳川義寛侍従は、昭和63年に侍従長を辞めるまでの半世紀、昭和天皇一筋に生きた。
岡本監督版では、この24時間の閣僚たちのやり取りが延々と続く。三船敏郎が苦み走った表情で阿南を演じるのをテレビ放映で観た小学校時代を思い出す。時代の制約だったのだろう、天皇は遠目か後ろ姿でしか映されず、セリフもなかった。
平成の原田監督版では半藤氏のノンフィクション決定版と別著書をもとに、あくまでも阿南、鈴木、そして昭和天皇の3人の関係に焦点を当てた点が異なる。それぞれを演じた役所広司、山崎努、そして本木雅弘が持ち味を存分に発揮していた。
映画パンフレットに作家の五木寛之氏が寄稿している。中学1年のとき、終戦の詔勅をピョンヤンで聴いた。(韓国は日本の植民地だった)。五木氏の父は20年夏に教育召集されたが、幸運にも終戦前に帰ってきた。
「あの詔勅のラジオ放送をめぐって、これほどのドラマがあったことをはじめて知ると同時に、知らなかったことの罪をあらためて自省させられた」。知らないことの罪――


お盆休みに実家に立ち寄り、戦死した父方祖父のことを調べた。(父が亡くなっているので、戸籍抄本の写し等を参照した)。
小出敬一は明治38(1905)年、つまり日露戦争勝利の年、一宮で次男として生まれた。地元繊維会社の大番頭として働く敬一に召集令状が届いたのが昭和20年。3人の子と妻(僕の祖母)を残して東南アジアに出征、あの悲惨なインパール作戦で有名なビルマ戦線に配置され、「シッタン作戦」に参加した。雨季のぬかるみとコレラの蔓延する中、終戦半月前の7月31日、「シッタン河渡河点東方五粁二於テ戦死」。享年満40歳。あと1か月戦争が早く終結していたら、、、。


 

御巣鷹30回目の夏

「あの日」まで、御巣鷹山(標高1639m)が群馬県にあることを知る日本人は皆無に等しかった(実は同名の山が山梨県にも存在する)。そして1985(昭和60)年8月12日以降、史上最悪の航空機墜落事故現場として、”御巣鷹の尾根”は永遠に人々の記憶に刻まれることになる。「あの日」から30年――

昨年の当欄(アーカイブ2014.8.12.『御巣鷹のPTSD』)で書いたとおり、新聞記者2年目の夏休み帰省で一宮の実家にいた僕は、夜の臨時ニュースで事故を知った。脱兎のごとく東京社会部に戻り、翌朝、群馬県多野郡上野村の日航ジャンボ機墜落現場に向かった。
同期の桐山桂一記者は一足早く夜半、先輩記者と山に入った。いまと違ってGPSがなく、当初の発表は長野県・北相木村。同村の御座山(2112m)が墜落地点とされたため、そこを目指した。実際の現場とは10㎞ほど離れており、携帯もない時代の夜中では、なす術(すべ)がない。靴を履きつぶして人気(ひとけ)のない沢を彷徨(さまよ)った。
乗員乗客あわせた死亡者は520人。その中には、大脳生理学者の塚原仲晃・阪大教授や元宝塚歌劇団の北原遥子さん、歌手の坂本九さんらが含まれていた。
奇跡的に助かったのが女性4人。搬送先の公立藤岡総合病院で僕は待ち受けた。最初のひとりが担架で運ばれたとき、顔は毛布で隠れてわからなかったが、わきから覗いた腕の青白さが今も瞼(まぶた)に残る。
病院待合のTVで、中学生くらいの女の子が自衛隊ヘリに救出される場面が映し出された。川上慶子ちゃん(当時12歳)だった。彼女たちの証言からは、事故後しばらく男の子の声がするなど、4人以外に生存者のいたことが判明している。8月12日午後6時56分の墜落後、4人が発見されるまで16時間掛かっている。
もし、もっと早く墜落現場が特定されていたら、、、。ジャンボ機を製造したボーイング社が、事故機の以前の事故修理できちんと対応していたら、、、。仮定の話は詮無いことだが、事故から21年後、やっと日航が安全啓発センターを羽田空港内に開設したことは、遅きに失したとはいえ特記しておきたい。
墜落7年前に起きた伊丹空港での着陸時しりもち事故で、止め金のリベットがマニュアル通りに修理されず金属疲労を起こして破断、無残にもレタスのようにめくれた後部圧力隔壁や、そのときの衝撃で空中破壊されて海上落下し、後に駿河湾から発見された垂直尾翼の残骸、そして迷走の32分間に書かれた犠牲者の遺書などが展示されている。いちど、見学しようと思う。

30回目の「あの日」を目前にした週末、同期の井上純、久原穏記者が御巣鷹の尾根に登った。カラマツ林だった上州の山林はいまや整備され、標高差180mの登山道を歩むと、「昇魂之碑」が待っている。事故当時木々が激しくなぎ倒されてハゲ山だった現場は、村民らによって植林され、鎮守の森と変わった。周辺の斜面には遺体発見現場のそこかしこに墓標がたち、往時を偲ばせる。坂本九さんの墓標は「7Dのチ」地点にある。そこから見上げる夜の星は、これからもずっと下界の私たちを照らし続けるだろう。

百年を担う球児たち~”血染めのボール”~

70回を迎えた広島原爆忌の平和宣言。松井一実市長は方言でこう訴えた。「広島をまどうてくれ」。これは「ふるさとや家族、そして身も心も元通りにしてほしいという被爆者の悲痛な叫び」を表したものだ。平均年齢80歳超えの被爆者と遺族、世界100ヶ国以上の代表ら5万5千人が参加、犠牲者を追悼した。

同じ日、阪神甲子園球場では夏の第97回全国高校野球選手権大会が始まった。1915年(大正4年)の第1回以来ちょうど100年が経った。今年が第101回でないのは、昭和17年からの4年間太平洋戦争で開催出来ず、空白があるためだ。戦時中の食糧難対策で、同球場のグラウンドはイモ畑に転用された歴史を持つ。
選手宣誓は京都・鳥羽高の梅谷成悟主将。第1回優勝校・京都二中は学制移行で鳥羽高となり、記念すべき今大会で甲子園出場を勝ち取る巡り合わせとなった。
「宣誓、、、この百年、日本は激動と困難を乗り越えて、今日の平和を成し遂げました、、、次の百年を担う者として、8月6日の意味を深く胸に刻み、甲子園で躍動することを誓います。」
梅谷君の言葉は彼の名前通り、スポーツマンシップの悟りを成したものだった。

開会式に続く第一試合前での始球式。マウンドに立ったのは、王貞治さんだった。野球を知らない人にも解説不要な”世界のホームラン王”だが、紹介したいエピソードがある。
早稲田実業高校(早実)に進んだ王選手は投手として活躍した。春夏通じて4回甲子園出場し、2年生春の選抜大会(昭和32年)ではみごと優勝した。王投手はエースとして連投、準決勝まで3試合連続で完封勝ち。しかし、アクシデントが起こる。大会中に利き手の左中指の爪を割ったのだ。決勝の高知商戦では血染めのボールを投げ続け、5対3で紫紺の大旗を手中にした。

ここで話は、『巨人の星』(梶原一騎原作・川崎のぼる作画)に移る。
これもファンには周知だが、知らない方のためにひとこと解説。元プロ野球巨人軍三塁手の父の夢を託された主人公・星飛雄馬が、スパルタ教育を受けて巨人に入り、最後は父が中日ドラゴンズのコーチとなって闘うまでを描いたビルドゥンクス・ロマン(青春大河小説)。僕の小学校時代の人格陶冶はほとんどこの漫画から得たと言ってよい。ぜひ、今の若者に読んでほしい不朽の名作だ。
で、左腕投手の飛雄馬は青雲高野球部に入り、伴宙太という生涯の友を得てバッテリーを組み、甲子園に駒を進める。準決勝で熊本農林高の左門豊作と対戦。その際、宿敵左門のピッチャーライナーを好捕したものの、折れたバットが飛んできたのを払い落とし、左親指の爪を割ってしまう。そのせいで、決勝戦ではもう一人のライバル花形満率いる紅洋高に敗れる。
『巨人の星』は、現実の野球界とフィクションが入り混じった梶原一騎ワールドが目一杯展開する。読んだ当時(昭和45年頃)には知らなかったが、血染めの親指場面は明らかに、王貞治投手のエピソードを下敷きにしている。
決勝戦のマウンド上で、飛雄馬はいちどは逡巡した。念願である巨人入団のために、割れた爪の事実を公表してマウンドを降りれば、プロのスカウトの評価は下がらない。しかし、生涯のライバル花形の澄んだ目をみ、一心不乱に応援するスタンドの声援を聞いて、飛雄馬は思い直す。
「その時その時にすべてを燃やし尽くしてこそ、いつの日か夢も果たせるのだっ」。
爪のことを隠したまま、スローボールでその場での最善を尽くし、敗けた飛雄馬。しかし、長い目で見てそれは彼の人格成長につながったのだった。――「敗けて勝つ!」

きょうの阪神広島戦で、カープナインは全員、背番号「86」、胸に「PEACE」のロゴ入りのユニフォームを着用した。野球を愛する人も、そうでない人も、こころの底には常に、”血染めのボール”を持っていてほしい。70回目の8月6日にそう想う。

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