2015年07月

還暦七夕・一宮の法則

当院の所在地、愛知県一宮市で週末、「第60回おりもの感謝祭一宮七夕まつり」が開催された。繊維のまちの商業的発展を目指して始まった”日本三大七夕”はことし還暦を迎え、最終26日は東京ディズニーパレードまで繰り出しての賑わいとなった。そこで今回は地元一宮にまつわるムービーの紹介編。

『宇宙の法則』(井筒和幸監督1990年)
映画は東京駅新幹線ホームでの二人の男の会話から始まる。古尾谷雅人扮する売れっ子アパレルデザイナー正木良明が、郷里一宮で機(はた)織り業を営んでいた父の急死のため帰郷する。会社上司役の寺田農が見送る。
 「名古屋まで?」。「2時間です」 
 「そんで?」。「40分かな」
 「2時間か」。「2時間40分です」
 「近いね」。「遠いですよ」
 ~~~~~~~~~
 「おまえ、故郷(くに)に帰ったら、まだ赤ん坊だぞ」・・・
いま、東京名古屋間は『のぞみ』で1時間45分だし、名古屋一宮間はJR快速11分。映画は昭和60年代の設定だ。それにしても良明の言う「遠い」とは彼の故郷への心理的距離を表している。同じ一宮生まれで大学から東京に出た僕にはそれが実感できる。
その後、父の葬儀の回想シーンで兄(長塚京三)とけんかをする良明。「おまえは次男で好き勝手東京でやりやがって」と言われ、土地と家を売り払って機屋を畳もうとする兄に殴りかかるが、結局、売ったのは機械のみだった。良明は兄と仲直りし、地元で新たな生地デザイナーとして家業を立て直す決意を固める。
ちょうどそのとき、竹中直人演ずる同級生が助け船を出してくれるが、仕事が軌道に乗りかけた矢先、商売相手にだまされ、繊維業界で生き残る困難さに直面する。良明は雨の中を奔走するうちに過労がたたり肺炎になってしまう。ラストシーンでは入院先で鼻管カニューレをつけ、チアノーゼの唇で仕事の予定をつぶやきながら、家族に見守られるなか息を引き取る、、、。
ストーリーを考えた時、最後で主人公を死なせる必然性があったのか判然としない気持ちはあるが、なんといってもこの映画の魅力は、”いちみや”が散りばめられている点だろう。
良明の帰郷シーン。尾張一宮駅は今のピカピカ i-ビルと違い、コンクリむき出しの、おじさん世代には馴染みの駅だ。七夕飾りのクスダマが映っている。自宅のロケ地はおそらく尾西地区あたり。田んぼに建つ「のこぎり屋根」が機織りのまちを象徴する。早朝、郵便受けに届くのは中日新聞。兄と和解する木曽川土手では濃尾花火がスクリーンを彩る。そして、良明が雨に倒れたのは、昭和最後にロケした七夕まつりの真清田神社だ。

七夕伝説では、織姫は機織り上手な娘で夏彦(牽牛)も真面目な牛飼い。天帝は二人の結婚を認めたが、その後夫婦生活にかまけて機を織らず、牛を追わなくなった二人を天の川で隔てた。7月7日のみ逢瀬を許したわけだが、雨にたたられると出会えない。
七夕まつりの雨にやられた良明こと古尾谷雅人はその後、45歳で自裁の道をたどった。昨年春、開院時のコラム(『ヒポクラテスたち』2014.4.6)で紹介した映画の主人公を演じたのが彼だった。元女優の妻によると、晩年は信条に合わぬ役柄を引き受けないため仕事が減り、借金からアルコールに逃げていたともいう。牽牛になり損ねたのだろうか。






空と海のあいだに

7月20日は「海の日」。国民の祝日の中では制定(平成8年)から日が浅いが、起源は明治天皇の汽船による巡幸を基にした「海の記念日」だから、由緒ある祝日ともいえる。東京・葛西臨海公園では、水質浄化の努力が実り、半世紀ぶりの都内海水浴場オープンで賑わった。夏だ海だというイメージ全開のこの日、実は「空」にも深いつながりがある。

1969年7月20日、アメリカの有人宇宙船アポロ11号が人類史上初めて月に着陸した。米ソ冷戦時代のさなか、その8年前ケネディ大統領が宣言した通りに国家の威信をかけた大事業が成し遂げられた。地球の6分の1の重力しかない月面に降り立ったニール・アームストロング船長の言葉がまばゆい。
「これはひとりの人間としては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である」。
翌年の夏休み、大阪万博に家族と出かけた一宮の小学生が何より見たかったのが、地球に持ち帰られた「月の石」だった。ドーム型展示館に入るため、2周分の行列に汗だくで並んだ記憶がある。
アポロ11号からちょうど7年後の同じ日、米探査機バイキング1号が火星着陸に成功した。ニューメキシコの砂漠地帯を思わせる荒涼とした電送映像に”火星人”は写っていなかった。

僕は最初の大学(法学部)のゼミで「宇宙法」を専攻していた。宇宙に法律があるなんて、それまでは思いもしなかった。当時、名だたる法律ゼミに入る気がなく、単位も取り易いとの事前情報程度で入ったとおもう。教授は穏やかな人で、小人数の学生仲間も付き合いやすかった。
宇宙法とは、1959年国連で設置された宇宙空間平和利用委員会の所管で作成された宇宙5条約のこと。中心となるのが1967年発効した宇宙条約(正式名称は「月その他の天体を含む宇宙空間の探査及び利用における国家活動を律する原則に関する条約」)。アポロ11号の2年前のことだ。
宇宙条約では宇宙空間の探査がすべての国の利益のために自由に行えるとうたい、国家領有権の主張ができないと定めている。核兵器などの大量破壊兵器を地球周回軌道に乗せる事やミサイル配備も禁止している。
同条約には日本、米国、中国を含め127か国が署名または批准している。”スターウォーズ”は少なくとも法律上は生じないはずなのだ。

真空・極低温の宇宙空間とちがい、海抜ゼロメートルの世界では熱い闘いが続く。安保関連法案もつまるところ、中国の東・南シナ海進出に頭を悩ます米国と、同国51番目の州に事実上なっているわが国の立場がある。
海洋法は学んでいないが、資料によると宇宙条約同様、国連海洋法条約が1994年に発効している。領海や公海、資源の探査、開発、保存に関わる排他的経済水域などに関する取り決めが細かくなされ、165の国・地域とEUが批准している(2013年4月現在)。困ったことに米国が批准していないのだ。もっとびっくりなのは、中国が批准していることだが。

海という字は、へんがかんざしをつけた女性(母)を表す。フランス語で海[LA MER]は女性名詞だ。
母なる海――尊敬する歌手のひとり、加山雄三さんの代表曲に『海その愛』(岩谷時子作詞1976)がある。
♪ 海に抱かれて 男ならば たとえ破れても もえる夢を持とう ~中略~
  海よ俺の母よ 大きなその愛よ 男のむなしさ ふところに抱き寄せて 忘れさせるのさ 
  やすらぎをくれるのだ ~♪
聴いたことのない人はご本人(弾厚作名義)作曲による雄大なメロディーをぜひ味わうべし。

アポロ11号が降り立った月の地名は「静かの海」。

歴史もうつ病も繰り返す、のか?

台風11号の到来した16日は、わが国政治史上の転回点となった。集団自衛権の行使容認を柱とした安保関連法案の衆議院本会議での強行可決。55年前の新安保条約強行採決がデジャ・ヴュ(既視感)のように甦った世代もいるに違いない。

寄せては返す波のように降る雨の中、産業医として働く会社に車を飛ばした。(産業医の役割については当ブログアーカイブ『会社のお医者さん』(2014・7・20)ご参照)。地元自動車部品メーカーT社の健康推進センターで十年来働いてきた。
診察室に着くやいなや、美しい女性2人が近寄ってくる。手にはクッキーのプレゼント。もちろん愛の告白ではない。今日が僕の誕生日であることを知る保健師らスタッフが気を使ってくれたのだ。「いつも真剣に社員さんに向き合ってくださって、私達の相談にも乗って下さってありがとうございます♥」の添え書きが”やる気スイッチ”を入れてくれる。きょうはいつにも増して面談の多い日だ。
T社でも「うつ」に悩む社員はかなりの数にのぼる。数千人規模の工場なので常勤の統括産業医がいるのだが、メンタル専門ではないので、小生やもう一人の精神科医が嘱託の立場から補助しているのだ。きょうは10人以上の面談があり、そのうち復職検診が4人を数えた。
メンタルヘルスの不調で仕事が出来なくなると主治医から診断書が出る。「うつ状態のため、1か月の自宅療養が必要です」が典型的文面。たいていは引き続き自宅療養の追加診断書が提出され、会社は対応に追われる。療養を続け、回復してくると「復職可能」の意見書を主治医に求め、予備面談を経て復職検診と相成る。
戻るまでには3段階必要だ。まず主治医の許可。次に産業医が復帰OKを出し、最後に会社と復職契約に至る。

きょう検診した歳度打津代さん(38)は製造ライン班長として頑張ってきた。数年前、上からの指示を下になかなか伝えられず、両者のあいだにこころ挟まった形で抑うつ的になり一度休職。元気になって復職したが、張り切りすぎて再度ダウン。今回は持ち場を変更して対応し、三度目の復帰となった。

うつ病は一般に再発率が高い。50%という研究もある。その数字を下げるにはどうしたらよいか?
勤労者の場合、「四つのケア」が基本となる。まずはセルフケア。自らの生活態度の改善から。体力のない者は歩くことから始まる。慢性期のうつは生活習慣病と同じ姿勢で臨むのが良い場合が多い。
二番目がラインケア。ひとことで言えば”ホウレンソウ”つまり報告・連絡・相談の実践だ。ベースに上司と部下の信頼関係が必要なのは言うまでもない。
三つ目が社内資源によるケア。僕がこうして続けている産業医への相談(50人未満の企業では地域保健所が対応)。保健師のいる会社では、彼女たちの役割が大きいことはもっと強調されてよい。
最後が社外資源の活用。メンタルクリニック受診、ということになる。この4つが有機的に働けば、社内うつ病は怖くない。

島国で春夏秋冬をもつ風土が日本人の細やかな民族性を形成したと考えたのが和辻哲郎。繰り返す季節、繰り返す自然の猛威にも耐えてきたわが同胞。さて、以前「うつ状態」(潰瘍性大腸炎もストレス関連疾患)で総理の座を投げだした人が今、歴史の転換点で声高な態度に出ている。実際に主導権を握るのは主権者である国民ひとりひとりのはずだが、さて、、、。

文殊医者の屈辱

7月9日は鷗外忌。夏目漱石と並び称される文豪森鷗外(1862-1922)の命日にあたる。昨年、太宰の桜桃忌について書いたので、今年は何を置いてもこの日を外すわけにはいかなかった。鷗外の娘、小堀杏奴さんと生前親交を得た者として、書き留めておきたい。(アーカイブ2014.6.19.「杏と桜桃」をぜひお読み下さい)

鷗外といえば、高校の国語教科書『舞姫』の文体を真似て、日記をつけていた頃を思い出す。鵜のまねをするカラスと成り果てたのは言うまでもないが、主人公太田豊太郎の恋人エリスの可憐さを思い浮かべながら、日記に当時思いを寄せていた女性のことを書きつけた。
島根の津和野藩から家の期待を背負い上京、東大医学部から陸軍軍医となって出世街道をひた走りながら、同時に日本近代文学の泰斗として完璧に二足の草鞋(わらじ)を履き切った文豪、というのが20代までの僕の鷗外観だった。
その考えは、桜桃忌の取材で知り合った杏奴さんとの交流後も変わらなかった。というか、太宰の事は聞けても鷗外のことは訊けなかった。歴史上の偉人のことを実の子に尋ねる遠慮が生じたのか、「鷗外の娘と知り合いである」と思うことのみで満足してしまうスノビズム(俗物根性)がそうさせたのか。
彼女の随筆『晩年の父』で知ったのは、父親のことを「パッパ」と呼び、父は娘を「アンヌコ」と呼ぶ子煩悩であり、厳格なイメージの鷗外に似つかわぬほほえましさだった。鷗外には先妻との間に1男、後妻との間に2男2女がある。二女の杏奴さんは鷗外47歳の時の子だった。かわいくないはずがない。

複雑な家庭事情で育ち、不機嫌亭ともよばれた漱石とは異なり、陽の当たる表道を歩んだ鷗外の人生。こうした先入観を一変させたのが、一冊の本だった。――『鷗外、屈辱に死す』(大谷晃一著、人文書院、1983)。
元朝日新聞学芸部の大谷氏は鷗外の遺書に目をつける。「、、、余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス、、、墓ハ森林太郎墓ノ外一字モホル可(ベカ)ラス、、、」の部分が一般に目を引くが、鷗外の本心はそこではない。[蛇足だが林太郎は本名]。
本丸は次の箇所にある。「、、、宮内省陸軍皆縁故アレドモ生死ノ別ルル瞬間アラユル外形的取扱ヒヲ辞ス、、、宮内省陸軍ノ栄典ハ絶対二取リヤメヲ請フ、、、」。「栄典」とは男爵のことと著者は断じる。
鷗外は文学者である前に高級官吏だった。周囲は皆爵位を持つ生活環境。鷗外と同等の陸軍人は皆、その栄誉に浴している。鷗外とて受爵願望を持つのに例外ではなかった。しかるに、彼の前には常に行くてを阻む小人物官吏がいる。I とK。二足の草鞋を履く鷗外への偏見、やっかみ、中傷。松本清張が小説題材とした小倉左遷をはじめ、鷗外の苦難の官吏人生の跡を、鷗外自ら亡くなる直前に回想する形式で叙述する考察。
元来、頑固な性質(たち)のある鷗外がその屈辱に耐え、医務局長の座につく経緯を、鷗外の小説をちりばめながら証明していく様子はさながら推理小説。読み進むうちに引き寄せられた。大谷氏はいう。鷗外の小説はむしろ、陸軍の生活での鬱憤を関係者のみにわかるように整えた作品が多いと。そして最期、爵位を絶対に受けぬと遺書で宣言することで、汚名返上に成功したーー。
「鷗外も人の子だったんだ」。そういう感想と同時に、その忍耐ぶりはやはり常人の及ぶところではないと感じ入った。

山椒大夫、高瀬舟、興津弥五右衛門の遺書、、。弟子の木下杢太郎が「テエべス百門の大都」と評したエジプト大都市のような鷗外の作品群。そのひとつに『寒山拾得』がある。寒山(かんざん)も拾得(じっとく)も中国・唐時代の小物官吏が尋ねた菩薩の化身だ。鷗外の嫌う I に心隠した返書を出した夜、書き上げた。そのあとがきで杏奴さんら子どもにこう言った。
「実はパパアも文殊なのだが、まだ誰も拝みに来ないのだよ」

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