2015年06月

「僕は、僕ではなくなった。」

18年前のきょう、神戸連続児童殺傷事件の犯人が逮捕された。現在32歳の元少年は先日、医療少年院時代と退所後の生活を手記にまとめ、出版したことが話題になっている。その著書『絶歌』(太田出版)を購入し、読んだ。

平成9年2月から5月にかけ、兵庫県須磨区で小学生が相次いで襲われ、4年女児と5年男児が殺害された。とくに男児の死体は首を切断され、通学先の小学校正門に置かれるという猟奇性の高い事件。被害者の口に挟まれた犯行声明文から「酒鬼薔薇聖斗」事件と呼ばれ、メディアで連日報道された。僕自身当時、精神科医となる直前の時期だっただけに、強い関心をもって報道を追った記憶がある。 
メディアで問題とされているのは①遺族への事前相談と了解なく出版し、感情を逆なでした②印税の扱い――で、こうした書籍出版の倫理性を問うており、兵庫県立図書館では手記の貸出複写を制限する方針だ。いっぽうで表現の自由との絡みでの議論もあるが、少年事件では異例の精神鑑定公開となった事件であり、こころ医者としては読まずにはいられなかった。

全294頁のハードカバーは黒地装丁に白色のカバージャケット。同一色の帯には「1997年6月28日。僕は、僕ではなくなった。」とある。本文は帯文と同じ文章で始まり、元少年(以下A)の生い立ちから事件審判までの第一部と、6年5ヶ月の医療少年院生活を終えた21歳から現在までを記した第二部からなる。
正直、第一部で猫を殺すくだりは、多くの人には読むに耐えないだろう表現が続く。精神鑑定で指摘された「直観像素質」(瞬間的に見た映像をいつまでも明瞭に記憶できる能力)をいかんなく発揮し、”事実”をこれでもかと書き連ねた結果がグロテスクな内容になってしまう。
重要なのはAが鑑定医師の前では努めて冷静を装い、決定的な事実を隠し通したこと、それを手記で明かしている点だろう。未分化な性衝動と攻撃性の結合で生じた持続的で強固なサディズムが本件の重要な要因とする鑑定。これに対し、最愛の祖母の死と愛犬「サスケ」の死、そして祖母愛用の遺品での性的経験こそが端緒だったことを生々しい筆致で吐露している。
事件当時、父母との関係が希薄だったと論じる識者もいたが、Aはそれを明確に否定している。手記を読む限り、Aの親子関係に決定的な欠陥は見られない。むしろ、自身こう述べている。「母親は僕を本当に愛して、大事にしてくれた。僕の起こした事件と母親には何の因果関係もない」。父に対しても「真面目だけが取り柄のつまらない人間だと思って」はいたが、その筆致に憎しみなど否定的感情は微塵も含まれていない。
結局、この事件はAの持って生まれた気質が起こした「超極私的」なものだったのか? 精神科医の香山リカ氏はAの脳機能障害の問題として捉える視点も必要と書いている。
第二部では医療少年院と出所後に関わった人々との出会いが語られる。その筆致は第一部とは違った趣きを与える。虚心坦懐に読むと、更生の意義があったのではという気もする。(それで被害者への償いができるわけでないことは本文で書かれている通りだ)。
手記終盤でAはこう書く。「現代はコミュニケーション至上主義社会だ、、、人と繋がることができない人間は”人間”とは見做されない。コミュニケーション能力を持たずに社会に出て行くことは、銃弾が飛び交う戦場に丸腰の素っ裸で放りだされるようなものだ」
A以外の誰かが書いた文章なら肯(うなず)ける内容だ。おそらく、事件後の更生の結果到達したAの偽らざる心情だろう。これをどう受け止めるか。言葉を治療の道具とする者としても、相応しい言葉が見つからないでいる。

父という余分なもの

父の日。昨年の当欄ではシャガール展にからめた話題を提供した。(アーカイブ2014.6.15 『しのぶれど色に出でにけりわがこころ』をご覧下さい)。そこで宿題にしておいた父親像の話をきょうはしてみよう。

最近、父の日の行事を中止する保育園・幼稚園が増えているという話題をテレビが報じていた。急増する母子家庭への配慮がその理由。シングルマザーが100万人を超える(2010年総務省統計)時代に突入したニッポン。父親参観で賛否両論の声をレポーターマイクが拾っていた。「お母さんが好き」という3歳児を抱えたお父さんが寂しそうな背中を見せていた。当院でも母子制度利用の患者さんは数多い。

そもそも母に比べて父は生物学的に存在意義が薄い。中学校の保健授業で卵子と精子が受精して、、、と習うし、社会科では両性の平等を教えられるが、動物の中にはメスだけで子を産み、育てる種もある。ヒト遺伝子の格納庫である染色体は常染色体と、性別決定のX,Y各染色体に分かれ、写真で見ると明らかにオスの決定因子となるY染色体の小さいことがわかる。研究ではX染色体の7%の遺伝子しか持たない。

文化的に見ても、キリスト教の救世主イエスは聖母マリアの処女懐胎で生まれた。これは単為生殖の人間版だろう。いうなれば、ヒトの雌は「女で”ある”こと」を求められるのに対し、雄は「男に”なる”こと」を求められるということではないか。
それを精神分析で表したのが「エディプス・コンプレックス」だ。フロイトがギリシャ神話から抽出した幼少期人格形成の抑圧理論。事情を知らずに父を殺害し母を妻にした王オイディプスになぞらえ、子どもが異性の親に抱く愛着と同性の親に抱く敵意をそう名付けた。
ゴリラ研究の泰斗、山極寿一京大総長に『父という余分なもの サルに探る文明の起源』(新書館・新潮文庫)という名著がある。山極教授は動物人類学者として、森林でゴリラと寝食をともにした経験などから、父親像についての考察を17年前にものしている。その冒頭で教授はフロイトのエディプス・コンプレックスを挙げ、こう述べるのだ。
「なぜ人類は、成長の早い時期にこのような親との性的葛藤を体験しなければならないのか。それはひとえに、人類の社会に父親という存在が深く根を下ろしているからである、、、多くの動物たちは父親がいなくても差し支えのない社会生活を営んでいる、、、ところが、人類の社会ではつねに父親が公的な存在として認められており、、、なぜ、かくも人類は父親という存在にこだわり続けてきたのだろうか。」
そして、続く考察で、サル(種々の類人猿)社会では幼児が父親という存在を通して社会化されることはないが、テナガザルとゴリラ社会では父親化の萌芽がみられるとする。そのために必要だったのがインセストタブー、つまり近親相姦の回避だという。それによって世代の基準が明確化する。
しかし、それだけでは足りない。男が父親になるには女から持続的な配偶関係を結ぶ相手に選ばれ、さらにその母親を通して子から選ばれるという二重の選択が必要なのだ。
そのために人類がとった戦略は親族組織の強化だった。常に同居しなくとも影響を及ぼすために「家族」は生み出された。その家族・父親が崩壊したといわれて久しい。冒頭のニュースはそのことを如実に表している。

このところ寒気が日本列島に入り込み、梅雨前線との間でまるで”エディプス葛藤”のようなひょう・あられを地上に降らせている。世の父親諸君、きょうぐらいはみずからの存立基盤を問い直す日にしてはどうか?





“マイナー”依存からの脱却を

インターネット上で向精神薬を不正販売したとして、兵庫県警は麻薬取締法違反(営利目的譲り渡し)容疑で東京の55歳女性を逮捕した。女性は生活保護受給者から薬を仕入れ、ネットを通じて知り合った相手にメール便で”転売”。口座には2800万円の入金記録があり、自宅から薬2万6千点が押収された――
先日報道されたこのニュース、ネット社会の裏面を象徴しているが、今日は向精神薬の乱用について記しておきたい。

向精神薬で問題視すべきがベンゾジアゼピン [BZ]系。俗に“マイナー”と呼ばれ、統合失調症などに使われる“メジャー”と対比される。催眠作用の強いものが睡眠導入薬に分類されている。その中で有名なのがデパスとハルシオンだ。後者は昔、アルコールと同時服用してラリったり、犯罪に悪用されるなど社会問題になったので有名な睡眠薬(ちなみに睡眠導入薬と意味は全く同じ)。
前者が本日の主人公。国内で最も処方されるBZだ。中には「デパス出して下さい」と指定する患者さんがいる。これには理由がある。
①:歴史的経緯から睡眠薬は30日処方制限があるが、デパスはその制限のない数少ないBZである。
②:デパスの効能には不眠のほかに「肩こり」があり、整形外科や一般内科などで処方されやすい。実際は他のBZでも筋弛緩作用はあるのに、他のBZより効くと信じられている。しかし、実際はエビデンス(疫学的証拠)があるわけではない。
③:半減期(薬が体に留まる時間)が短く、すぐ欲しくなる。つまり依存しやすい。しかも、0.5mgとか1mgの数字を見て、他のBZ(たとえばリーゼ5mg)より「弱い」と勘違いする患者さんが少なからずいる。これはデパスが、同じ効果を出すのに必要な容量を示す単位である力価が高いためで、数字が小さいほど効き目はシャープなことを知らないことからくる。つまり数字が小さいから安全と真逆に思い込んでいるわけだ。
④:一番の問題は、上記①~③を知りながら安易に処方する医師の多いことだ。いま、一宮むすび心療内科でも他から転医してきた患者さんのデパス依存を何人も治療しているが、かなり困難で時間がかかる。ごほうびは離脱できた彼女らの笑顔だ。

舞奈矢目代さん(42歳)は、最も長く診療を続けている女性だ。当初はストレスやパニック発作で悩む人と思っていたが、ある時期から発達に問題(ADHD)のあることに気づき、ストラテラという薬を始めてから劇的に改善した。長らく手放せなかったデパスが、完全ではないがかなり減らせたのだ。「それまでは、やめよ、と思ってもできなかった」と振り返る。
もう一点特筆すべきは、こじれた交友関係を清算できたこと。やはり、発達に問題のあると思われる知人A子とは腐れ縁。お互いパチンコ依存仲間だったが、A子からパチンコ代をせがまれ、万単位で「貸し続けてきた」。返してもらえるあてのないのを知りながら断れなかったのが、自分でもどうして?というぐらい、きっぱり拒絶できた。
舞奈さんが心配なのは、A子がさらに落ちていくことだ。生活保護を悪用して、あちこちの病院でデパスを貰いまくっている。みずから一度に20錠単位で飲んで現実逃避するいっぽう、冒頭のニュース女性のように、周囲に売り歩いているという。

いつも書くようにヒトは、進化の過程で情動をコントロールして文明を発展させる方向に脳を発達させてきた。その「歪み」のひとつが、辺縁系にブレーキのかからない依存症だ。野球でいえばマイナーリーグからいかに這い上がるか。向精神薬の”マイナー”に苦しむ人たちへのメッセージ。
 

『複雑な脳』を語る天才

梅雨直前のこの時季は医学も学会シーズン。外来休診の木曜日、日本精神神経学会学術集会に参加した。第111回の歴史あるプログラムの中で聴きたかったのは、脳科学者かつ臨床医として名高い中田力(なかだつとむ)新潟大・カルフォルニア大名誉教授の特別講演。超ハイレベルの内容を分かり易く加工して報告したい。

米国は2年前、国家プロジェクトとして脳の最先端研究を打ち上げた。21世紀は脳の世紀とも言われる。その研究で頻用される検査技法・機能性(f)MRIの権威が中田名誉教授。MRI自体は脳卒中や認知症を疑われると病院で検査されることが多いので、ご存知の方もあろう。梗塞や萎縮などを鮮明に映し出すスグレモノだが、fMRIは思考や計算で脳のどの場所が活性化するか解析できる、つまり脳機能を測定できるのが特長だ。

脳はニューロンと呼ぶ神経細胞がネットワークを形成し、グリア細胞など周辺組織が支える。それらが、2リットル入りペットボトルに全部納まるコンパクトな構造になっている。折り畳まれた表面を広げた面積は新聞紙大。
おおまか大脳、小脳、脳幹に分かれ、脳幹は呼吸や体温などの生命中枢。小脳は鳥類で発達したが、平衡感覚を司り、研究で手続き記憶に強く関わることがわかっている。手続き記憶とはたとえば、自転車に乗るなど体で覚えるもの。パブロフの犬で有名な条件反射も小脳が主役だ。
ヒトに特徴的なのは発達した大脳皮質(一番外側の”饅頭の皮”部分)。場所によって機能分担がある。例えば耳の上方奥(側頭葉)がやられると言葉がうまく出て来なくなる(ブローカ言語中枢)。その後方がやられるとしゃべり自体は流暢でも意味のある言葉が出ない(ウェルニッケ言語中枢)。
こうした事実から、機能局在論が今の脳科学の中心を占めている(この症状は脳のどこどこがダメになったせいといった議論)。しかし、そういった古典的脳科学から脱却すべしというのが、プロフェッサー中田の主張だ。
キーワードは『複雑系』。ニュートン力学に代表される「条件が与えられれば、結果はわかる」科学を線形科学という。たとえば星の動きがそうだ。次の日食がいつ来るか1分単位で計算できる。コンピュータが最も得意とする分野だ。
いっぽう、自然界の現象は確率的にしか将来を予測できないことも多い。一カ月先の天気予報があたらないのは、初期条件のわずかな違いで結果が正反対になるからで、これを非線形科学という。人間の脳内事象は非線形なのだ。
ここから名誉教授の話は昨今の愛着障害に及ぶ。人間の精神の発達も非線形である以上、初期条件で後の結果におおいに差が出る。しかも大脳皮質はその発達の柔軟性に対し、ある時点で締切を作る。言語機能は2年。視機能は6年。眼球自体に問題なくとも6年間眼帯をして育つと、その後は(眼帯を外しても)一生、目がみえなくなるという。いっぽうで近視はほとんど後天性。この10年で上海の子の近視率は26倍。
同様に、幼少時に愛着を持って育てられないと、学童期になってADHDなどの障害が増加する。脳組織に障害がなくとも機能不全を起こすというのだ。日ごろ、こうした人たちに接している者として身につまされる思いがした。
話題はさらにアルツハイマー型認知症で蓄積するβアミロイドに広がり、脳内の水チャンネルの流れでこの物質の洗い流しをするという高説に及んだ。睡眠中にウォッシュアウト率は高まるとのこと。眠りは子どもだけでなく、年寄りにも必要なのだ。

東大を出て米国に渡り、救急臨床と脳機能研究の双方を極め得た医学者の”熱風講義”に汗かきかきの聴講だったが、その雰囲気の一端が伝われば、今日のコラムの目的は達したことになろうか。中田先生の関心は最近、歴史にも及び、邪馬台国がどこにあったのかを追求した本も書いている。興味のある方はPHP新書をご覧ください。天才の思考回路が辿れます。
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