2014年12月

おおつごもりの夜に祈る

きょうは大晦日(おおみそか)。おお味噌が、無い!
久しぶりの駄洒落で笑っていただいた方の割合が消費税率より多いことを願いつつ、本年最後のコラムの始まりはじまり。

年の区切りが冬至直後にあるのは故(ゆえ)あることだ。一番昼の短い日に至るので、冬至。中国の易経では「一陽来復」という。漢方コラムでも説明したように、かの国では陰陽論が思想の源流だった。森羅万象ことごとく対になって存在するという考え方。月と太陽、女と男など陰陽バランスがすべての出来事を左右する。一陽来復は、夜(陰)が極まった後に昼(陽)が勢いを回復する意。転じて、不運続きのあと幸運に向かう時に用いる。

大晦日の恒例で、朝刊中面に今年亡くなった各界有名人の追悼記事が載っている。今年はやしきたかじんさん(64)からロック歌手ジョー・コッカ―氏(70)まで総勢106人。最年少は交通事故で亡くなったサッカー元日本代表の奥大介さん(38)。最高齢は童謡詩人まど・みちおさん(104)。
まどさんに次ぐ天寿を全うしたのが囲碁の呉清源(ご・せいげん)さん(100)。囲碁を知らない方はご存じないだろうが、僕のように休日ネット碁に興じるご同輩には神様のような存在だ。「昭和最強の棋士」といって誰からも異論が出ない。野球でいえば長嶋茂雄さんにあたる。
名前からわかる通り、呉さんは中国福建省出身だ(その後日本帰化)。官吏の父が若くして結核で亡くなる直前、三男の呉さんは形見としてなぜか碁石をもらった。9歳だった。長男は書籍を譲り受けて官吏の道を継ぎ、次男は小説を渡され文学の道へと進んだ。その後の人生は、僕と同期の新聞記者である桐山桂一君が著書にまとめている(『呉清源とその兄弟 呉家の百年』岩波書店)。
中国人ゆえの差別的扱いを受けたこともあったが、囲碁の世界で突出した才能を開かせた呉清源にとっては、乗り越えられる壁だった。
呉先生によると、囲碁は二千年の歴史を持つが、碁盤と碁石はそれ以前からあったという。「昔は紙がなかったために、碁盤と碁石を使って種々の学問を教えました。陰陽、、四象、、八卦、、天文、医学(漢方)、、を教える教具として、盤石は甚だ便利でした」(現代の名局 呉清源上巻より)
碁盤の目は361(19路×19路)あるが、これは天文気象の数と一致するとのことだ。(路の中心は天元と呼び、真空を表現)。さらに鍼灸のツボ数にも一致する。そしてこれが肝腎なのだが、先生は「囲棋(囲碁)は陰陽の調和である」と喝破される。
以前のコラムでスティービー・ワンダーとポール・マッカートニーの名曲『エボニー&アイボリー』を紹介したことがあった(8月13日付「黒と白、左と右」)。黒人への人種差別はいまだに現在進行形だが、陰陽の調和を目指す理想がいかに困難かと思えてくる。


今夜は”おおつごもり”(大月籠りのつづまりで、大晦日と同じ意)なので、院長コラムは、2本分になりまあす!

大晦日の恒例行事といえば、NHK紅白歌合戦、である。昭和26年から続く国民的イベント。(細かいが大晦日開催となったのは28年から)。
正月準備を終え、家族皆が茶の間のコタツに足を突っ込み、ミカンをむきながらテレビ画面に食い入るという構図は、およそ昭和50年代までは共通認識だったように思う。出稼ぎの都会から帰省した次男・三男坊に声をかける田舎の親きょうだいという光景も、番組終了後の「ゆく年くる年」中継画面とダブって容易に想像できる。要するに、日本人の”こころのふるさと”の原点なのだ。
事態が変わり始めたのはいつごろからなのか? 
一番分かりやすいのが視聴率(記録の残るのは1962年以降)。最高は昭和38年(1963)の81.4%、オイルショックまではほぼこの数字をキープし、昭和50年代は70%台を守っている。(先ほどの僕の印象を裏付けるものだろう)。見る見る下がっていったのが1980年代後半から。バブルに突入していく時代だ。2部制に分かれた40回目、平成初の紅白ではついに50%を割り込んだ。21世紀に入ってからは、前半は30%台、後半で40%前半。
こう見てくると、紅白の視聴率は高度成長以降、一貫して低下してきたとわかる。しかも低下は景気変動と連関していない。むしろ国政選挙での一貫した投票率低下との相関の方が大きい。おそらくこれは、日本人のライフスタイルや家族観が昭和時代とは本質的に変わってきた証左なのだろう。大衆から分衆の時代といわれて久しい。携帯主役の座がガラケーからスマホに移り、家族の細断化は一層進んでいるように思える。(息子は今朝「友達と会ってくる」と言って、スマホ片手に出て行った)
それでも、事態打開の柱が「歌」であることに変わりはないと思う。政治の源流が政事(まつりごと)=祭祀(まつり)であることをおもえば、歌の出自は神様への願掛け(祝詞)であり、そこには必ず「祈り」を伴う。紅白が国民的行事となり得ない時代になっても、歌の神通力は失われないと信じたい。

その意味で今年、中島みゆきが12年ぶりに紅白出場したことは、個人的には快事だった。
高校の時に『わかれうた』を初めて聴いたときの衝撃は忘れられない。暗かった気持ちに追い打ちをかけるような歌詞、声質。みゆき節に慣れ、あの詞の本当のすごさを知るにはまだ若すぎた。
いまなら、わかる。だから、落ち込んでいる患者さんにこう伝えるときがある。「そうか、つらいんだね。中島みゆきを聴きなさい。もっと落ち込んでもいいから。そこから何かを掴みなさい」と。
こう書きながら同時進行で第65回紅白歌合戦を観ていたら、ご本尊登場前にみゆき(呼び捨て御免)の作歌をうたう男性がいた。クリス・ハート『糸』。名曲。そして、年が改まる前、本人が画面に現れた。『麦の歌』。みゆきは、歌いながら祈っているように映った。「♪麦に翼はなくても、歌に翼があるのなら♪」。
中島みゆきの本名は中島美雪。平成27年元日の天気予報は雪模様だ。ことし1年、悲しみに沈んだ皆さんへ。みゆきネエサンの歌を聴いて、降る雪に祈りましょう。来年は良い年でありますように。

ハンバーグ弁当、ふたたび

今年も残りわずかとなった。人によってはこの週末、仕事納めの方もあったことだろう。一宮むすび心療内科は明日までの診療。それに先立って昨夜、スタッフ忘年会を催した。

当コラムご愛読の方は覚えておられようか。開院以来60回にわたり紙面(画面)を汚してきたなか、初週末に載せたのが『ハンバーグ弁当』」(4月13日)だった。土曜の昼に注文したレストラン三栗(みくり)の弁当をタイトルにした小文――。肉汁滴るあの味が忘れられず、クリニックから徒歩1分の利便もあり、会場はその三栗に決めた。
線路脇のマンション1階にある瀟洒なブラッセリ―。白を基調とした落ち着いた店内は東京・西麻布にでも舞い込んだかのよう。さいわい、マスターの計らいにより終夜貸切りで楽しめた。

献立をご紹介しよう。
◇オードブル[サーモンのタタキ・牡蠣入り茶碗蒸し・生ハム&ラ・フランス]
◇オニオンスープ
◇蟹クリームコロッケ、キャベツのマリネ風サラダ
◇ハンバーグステーキ(デミグラスソース)、一口サーロインステーキと黒トリュフのジャガイモピューレ添え
◇パン、デザート、コーヒー

日頃さぬきうどんに慣れている身には垂涎のメニューだったが、年に一度の贅沢もわるくないナと思った。もちろん参加者そろって舌鼓を打ったのは言うまでもない。

『ハンバーグ弁当』コラムでこう書いた。
「生きているとは、おなかがすくこと、、、肚(はら)がへっては、いくさはできぬ。同時に、ひとはパンのみにて生くるにあらず。――そのあわいを通っていく難しさが、生きることの歓びにつながる」。
今もって、その想いは変わらない。これからも、その”針の穴”を通っていく心持ちで仕事を続けていきたい。心身一如!
患者さん・当コラム読者のみなさん、来年もよろしくお願いいたします。よいお年を!







続・真実へのSTEP~吹雪の中で考える~

昨日からの「台風並み冬の低気圧」は、文字通り日本列島を震撼凍結させた。けさ、駐車場で自家用車のルーフに積もった雪を測ったら手のひらの幅(約22㎝)あった。12月としては記録的な量だ。

今年を振り返って、記録といえば思い出すのが、小保方晴子女史の「STAP細胞は、ありまぁす!」。そして「200回以上作りました」という発言だ。亡くなった笹井芳樹理化学研究所総合研究発生・再生科学副センター長が論文指導したという事実から、大方の人はSTAP細胞の存在を一度は信じた。(少なくとも斯界の権威である雑誌Natureがそうだった。彼を知る僕は言うまでもない)。ただし、彼女の”200回発言”を聞くまでは。
昔、民俗学でこんなことを教わった記憶がある。熱帯ジャングルに住むある民族には、数を数える言葉として「1、2、3以上(たくさん)」しかないと。それで生活が成り立つのなら、それでよいのだろう。自分がいて、目の前に言葉を伝える相手がいて、それ以外は何人いても同じこと。なるほど。
小保方さんが”現地”で完結した生活をしているのなら問題はなかった。仮説のままで、研究者の仲間うちで興味あるトピックを今も提供していたことだろう。しかし、ここまでハナシが大きくなってしまったからには(それにはバーガンディ元教授やマスメディアの責任もあるとおもうが)、彼女には説明責任がある。本当にSTAP細胞を見つけたのなら「いつ、どこで、どのように」見つけたかを言わねばならない。科学者ではない者だってそのくらいは知っている。まあ、その結果が、今回の「ありませんでした」ということなのだろう。
科学において、新発見の輝きは無数のチリの山の一片に過ぎない。それがときおり、一人の天才や一つの偶然から生み出されるように見えるのはよく聞く話だが、実はその背後には無名の科学者の累々とした努力の積み重ねがある。
笹井氏の名声は同級生仲間から漏れ伝わって聞いていた。しかし、その努力の跡まで知るほどの親交はなかった。きょう偶然、インターネット上で彼の20年来の友人である阿形清和京都大教授の話を読み、合点がいった。(以下産経新聞から引用)
阿形氏は言う。「彼は『孤高の天才』なんです」。山岳小説家新田次郎の『孤高の人』主人公モデルの登山家加藤文太郎(1905~1936)に笹井氏をなぞらえた。加藤氏は複数で登山する当時の常識を覆し、単独登頂を次々打ち立てた天才クライマーだったが、自分を慕う後輩に懇願され、未熟な計画を立てたパーティを迷った末に組んで、厳冬の北アルプスで命を落とした。「笹井も他人の仕事に手を貸したため、悲劇に遭った」。
笹井氏がノーベル賞候補になったとされる大きな理由は、20年前の米国留学時代に神経誘導のタンパク質を発見したことだ。高校生物の教科書に載っているシュぺーマンの予想した物質の正体を70年ぶりに明かしたのだ。「笹井は『自分が謎の物質を特定する』と渡米し、予告通り実際に発見して帰ってきた。天才を絵に描いたような男だった」。
惜しむらくは、笹井氏が小保方女史と出会ってしまったことだったのか?
彼の家族には酷な言い方かもしれないが、やはり、死んでほしくはなかった。生きて、「STAP現象がある」と信じていることを科学的に検証してほしかった。よしんば、結果が否定的なものになったとしても誰もそれを咎めることはできないだろう。
風雪に耐えるということはいかに難しいか。明日は氷点下になりそうだ。


トラック野郎のパニック障害

映画の日に菅原文太さん(享年81歳)の訃報が飛び込んだ、高倉健さん(同83歳)に続き、昭和を代表する映画スターが退場してしまった。菅原さんは東映の「仁義なき戦い」シリーズで名を馳せ、「トラック野郎」では主人公・星桃次郎を演じた。はまり役で銀幕を沸かした菅原さんに惚れ込み、トラック運転手になった患者さんが当院で通院を続けている。病気は「パニック障害」。きょうはその話をしよう。

パニック、と聞いて大半が思い浮かべるのは、災害時での群集心理だろうか?慌てふためき、不安が押し寄せ混乱、ひどいと泣き叫ぶ、、。これに対しパニック障害(PD;Panic Disorder) は、緊急時でなくとも、ある状況下で同様の症状が生じる精神疾患だ。たいていは逃れられない状況(たとえば特急列車に乗ったときや美容院でパーマをかけるとき、映画館で真ん中の座席にすわったとき、、)で生じる。いっぽう夜中に突然起きることもある。このパニック発作を繰り返し、また起きるのではという「予期不安」から生活に支障をきたす状態が続いたときにPDと診断される。
突然の動悸、冷や汗、めまい、しびれ。窒息しそうになり、死ぬのではないかという恐怖感で救急車を呼ぶことも稀ではない。ところが病院で検査しても異常なし。この病気に理解のない担当医にかかると「気のせいですよ」「ストレスですね」で帰されることになる。
なかには過換気症候群(HV;Hyper Ventilation)と混同する医師もいる。HVはたとえばコンサート会場で興奮絶叫した女性が息を吐き過ぎて、血液中の炭酸ガス濃度が下がってアルカリ性に傾き、体がしびれ意識が遠のく状態。パニック発作はHVをきっかけに起きることもあるが、別の病態だ。
この病気はかなりポピュラーでおよそ20人に1人が経験する。男女差はあまりなく、好発年齢は10代後半から30代後半。真の原因はうつ病同様解明途上だが、うつ病と併発することも多い。その理由は以下のようだ。
ヒトの脳は大きく3つの階層にわかれ、真ん中に位置するのが辺縁系と呼ばれる記憶や感情を司る部位だ。呼吸、体温などの生命中枢である脳幹と、理性や知能を受け持つ大脳皮質を結びつけるのが辺縁系なのだ。パニック障害(PD)やうつ病患者ではここの働きが落ちている。とくにPDでは回路が過敏になっており、言ってみれば誤作動しやすい火災報知機のようなもので、本来なら無害なはずの刺激に過剰反応してしまう。一度起きると繰り返す傾向がある。
治療は程度によって異なるが、管理困難な例ではSSRIといううつ病に使う薬を飲み、認知行動療法を併用する。

月栗三郎さん(43歳)は子供のころからの車好き。思春期に文太兄ぃの「トラック野郎」シリーズを観て感激し、学校を出て大型免許を取得、晴れてトラック運転手の仕事に就いた。
ところが5年前の雨の日。いつものように東名阪道を運転中、トンネルに入ったところで得体のしれない不安感に襲われた。「闇の中に入り込んでしまうような怖さ」を体験。その場は何とか切り抜けたが、以後断続的に、とくに天気の悪い日や夜は自動車専用道路を走れなくなってしまった。一般道なら何とかだが、時間がかかり、仕事に支障をきたす。内科で診てもらっても異常はなく、安定剤を処方されたが、発作はあまり減らない。――というわけで一宮むすび心療内科受診と相成った。
前述の治療を始め3か月で症状はある程度落ち着いてきた。まだ予期不安はあるが、発作の起きたトンネルを走れるほどまで回復した。目標は症状ゼロではなく、仕事が支障なくできる事。日常生活を普通に送ることだ。

映画での派手な立ち回りと違い、文太さんの素顔は物静かで優しいひとだったという。晩年は山梨で有機農法に取り組み、東日本大震災後は脱原発を表明。集団的自衛権にも反対していた。おそらくパニック発作は経験していなかったのだろうが、患う人々には理解と共感を示してくれたことだろう。

ギャラリー